生活

オン・ザ・ロード 正祖王につき従って華城への道を歩く

ソウルから南に約20㎞の距離にある水原(スウォン)市は、人口約120万人を擁する京畿(キョンギ) 道庁の所在地である。京畿道で一番大きな都市でもある水原の旧都心を取り囲んでいる華城(ファソン)は、朝鮮後期建築の白眉とされる。1997年ユネスコ遺産に登録されたこの城郭は、李氏朝鮮の第22代国王チョンジョ(正祖、在位1776~1800)の哲学がそのまま 溶け込むように緻密な設計で造られた。何よりも準備段階から完工に至るまでのすべての過程が記録に残っているということが、その価値をさらに高めている。

1795年春、朝鮮の王都・漢陽(ハニャン)は、全国から押し寄せてきた見物客でにぎわっていた。一時的に夜間の通行禁止を解除し、数カ所に臨時のテントも張ったが、彼らを受け入れるにははるかに不足していた。それに付け込んだ商売もでてきた。見物客の目的はただ一つ。国王の行幸を近くから見ることだった。朝鮮朝廷は全国各地に張り紙をして、これを広く知らせており、近くから王を見ることを認めた。一生の間に一度あるかないかの機会だった。王を見ることは、光を見ることと同じだと思われていたため、当時この人込みを「観光民人」と呼んだが、今は「観光」という言葉はツーリズムを意味する。

王の親孝行
1795年2月9日の朝7時頃チョンジョは、昌徳宮(チャンドックン)の正門・敦化門(トンファムン)の前で、母ヘギョングン(恵慶宮)洪氏を迎える儀式を執り行ってから、馬に乗って出発した。1㎞に及ぶこの王の行幸の目的地は華城だった。今も多くの韓国人がこの歴史の一場面を心に刻む最大の理由は、チョンジョの親孝行にある。この華やかな行幸の目的は、母ヘギョングン洪氏の還暦を兼ねて父サドセジャ(思悼世子)の墓参であった。政治勢力間の陰謀と対立の狭間で翻弄され、精神的に追い詰められた父サドセジャは結局、反逆の濡れ衣を着せられ1762年27歳の時、実の父親であるヨンジョ(英祖)の命によって、米櫃に閉じ込められたまま8日後に息絶えた。11歳で父親の悲劇的な死を目の当たりにしたチョンジョは、「針のむしろに座るように恐ろしく、卵を積んだような危うい」歳月を「ドスンドスンと靴音を立てながら、慎んだり、恐れたりする様子もなく」14年の忍耐の末、王位に就いた。即位の初日チョンジョは、自分がサドセジャの息子であることを明らかにした。

水原・八達山(スウオン・パルダルサン)から南方向に10㎞ほど離れた花山(ファサン)には、その名にふさわしく12のつぼみ模様の石と屏風石で華麗に飾られた父サドセジャの陵墓がある。この敷地はもともと、水原の都護府(古代の辺境統治機関)のあった所で、その後数百年間、朝鮮王陵の明堂として注目された。チョンジョは1789年、水原都護府の跡地に京畿道・楊州(キョンギド・ヤンジュ)にあったサドセジャの墓を移した後、顕隆園(ヒョンリュンウォン)へと昇格させた。さらに父親の冥福を祈るため、近くに寺院も建てた。父サドセジャの死から33年後、母洪氏の初詣が初めて行われた。

『華城陵幸図』キム・ドクシン(金得臣、1754~1822)他 1795年頃、絹に彩色、各幅151.5×66.4㎝ 1795年正祖(チョンジョ)が、還暦を迎えた母・恵慶宮洪氏(ヘギョングンホン氏)と共に、父・思悼世子(サドセジャ)の墓参りに行き、還暦祝いを行った様子を記録した絵。8日間の行幸を8つの場面で構成して盛り込んだ。図画署(国家事業の記録を絵画に残す仕事をする宮中の部署)の画家数人で描いたものと推定される。精巧な描写と華やかな彩色が宮中絵画の格調高さを見せる一方、当時の各界層の人物及び風俗をリアルに表現した記録画の白眉である。© 国立故宮博物館

蘇らせた200年間の記憶
国王の「行幸」は、近代以前の北東アジアの王朝国家でよく見られる儀礼的な政治行為であるが、チョンジョの今回の行幸はいろいろな意味で特別なものだった。まず、規模の面で朝鮮建国以来最大のものだった。8日間の巡幸のために動員された人数は計6000人、投入された馬だけで1400頭だった。予算も過去最大の10万両(約70億ウォン)に上った。母洪氏が乗る輿の製作には、各分野の職人120人が携わっており、2785両(約2億ウォン)の費用がかかった。今日自動車の生産量でトップを走る韓国でも、まだこれほどまでに高い車を生産したことはない。このように行事の細目がうかがい知れるのは、この行幸に関する膨大な規模の記録のおかげである。

その一つが『園幸乙卯整理儀軌』(国王の華城行幸記録)である。8冊に編纂されたこの本は、行事を主管した臨時官庁が発行した記録物で、儀式の顛末が記してある。特に、随行員たちが行進する様子が描かれた63ページの班次図(バンチャド)は抜群だ。この絵図は、風俗画の大家キム・ホンド(金弘道、1745~1806?)の指揮の下、そうそうたる画員たちが共同で描いたものであり、記録としての価値はもちろん芸術性にも優れている。もう一つは、8曲の屏風で作られた「華城隆幸図」(ファソンヌンヘンド)である。八日間の壮観さを描いたこの屏風には、完工した華城全体の姿が詳細に描かれており、行幸の翌年に完成したものと推定される。押し寄せる人波を統制する兵士たち、団体観覧の若い儒生たち、喧嘩の仲裁に割り込む男、その隙間から垣間見られる飴売りなどの姿が身近なものとしてリアルに描写されている。

それから200年後の1993年に出版されたイ・インファ(李仁和)の小説『永遠なる帝国』は、多くの人々に当時の記憶を蘇らせた。チョンジョの毒殺説をモチーフとした同小説がベストセラーになり、これを原作とした同名の映画が相次いで制作された。その後、水原の華城がユネスコ世界文化遺産に登録されると、チョンジョが残した記録物を要約・整理して解説した本が出版された。またモノクロ木版画の班次図も彩色復元され、高級文化商品として出版されたりもした。これを機にチョンジョは、朝鮮王朝のルネサンスを率いた改革君主としてのステータスを取り戻した。長年の間に忘れられていた国民感情である「聖君の思い出」を呼び覚ましたのだ。

チョンジョは、三日間ここに滞在して父親の墓参りをし、官吏採用の科挙試験を行い、昼夜を問わず軍事訓練を参観し、母親の還暦祝いを開催し、地元の老人たちのための宴会を催した。

京畿道華城市(キョンギド・ファソンシ)に位置する隆陵(ユンヌン)は、朝鮮第22代王の正祖の父・思悼世子(サドセジャ、1735~ 1762)と生母・恵慶宮洪氏(1735~1816)が合葬された陵墓である。

チョンジョのための渡船橋
チョンジョにとってこの道は初めてではなかった。父親の墓を移してから毎年の墓参も今回で六回目だ。このように頻繁な遠出には、もう一つの意図があった。大勢の軍事が動員されるということから、彼らの訓練状態と首都圏の防衛体制を点検する機会となり、同時に軍事の移動を通じて新しい道と橋を造るなど、道路整備事業の効果もあった。チョンジョは親孝行を標ぼうすると同時に自分の統治力を強化するという、高度な政治的パフォーマンスとして遠出を活用した。

最も厳しい道のりは、漢江(ハンガン)を渡ることだった。直接船に乗って渡るか、渡船橋を造って渡るといった二つの方法があるが、チョンジョは渡船橋を選んだ。問題は、数百隻の船を動員しなければならず、その工事期間が長いため、船主たちの生業に多大な支障をもたらすということだった。そのため短期間に最小の費用で、安全で美しい渡橋を建設すること、それがチョンジョの目標だった。チョンジョは父親の墓の引っ越しから得られた経験を踏まえて、川の幅と船の高低、つなぎ方など、15項目についての指針作りを指示し、体系的なアプローチと設計を求めた。時間をかけ綿密に練られた『舟橋節目』(1793)という冊子が完成した。これを基に1795年2月、11日間という短期間に機能と外見の優れた渡船橋が完工した。チョンジョが利用した渡船橋の場所に、1917年最初の近代的人道橋である漢江大橋が竣工した。それから100年が経った今日まで漢江に建設された橋は計31橋である。

渡船橋で優雅に漢江を渡ったチョンジョは、既存の南泰嶺(ナムテリョン)を越えて果川(カチョン)へ向かう道の代わりに、チャンスンべギを経て始興(シフン)に行く新しい道を利用した。距離はあまり変わらなかった。ただ、馬に乗って5行、多い時で11行の列をなして行進したので、道の幅がその分広くなければならなかったが、山道を造るよりは平地の道を造る方が簡単だったからだ。その代わりに、始興への道は大小の小川が散在しているため、より多くの橋を建て架けなければならないといった短所もあった。チョンジョの選択により二つの道の運命が変わった。始興道は、その後も拡張され続け、朝鮮の10大路として、今日ソウルの中心部と南部地域を結ぶ国道1号線の幹線道路となった。その一方、かつて賑わっていた時代を彷彿させる古びた酒幕(チュマク、旅籠に当たる)のある南泰嶺は、旧道に衰退してしまった。

思悼世子と恵慶宮洪氏の墓・隆陵は、つぼみ模様の石、ボタンとハスの花模様を刻んだ屏風石などで華やかに飾られた。この墓からは、王座に就けず早死にした父親の墓を最大限王陵に相応しく工夫した正祖の親への思いがうかがえる。

華城築造の目的
敦化門から出発した行列は始興で一泊し、翌日の夕方頃に華城の北門を経て、水原の官衙に着いた。着工から1年が経過した華城の城郭は未だ工事中であった。チョンジョは水原を華城に改名し、行政単位を昇格させて5000の兵士を擁する親衛隊・壮勇営(チャンヨンヨン)を設置した。水原はソウルの南側を行き来する際の重要な通り道であるため、ソウルの外郭の防衛体制を固めるという大義名分があった。

華城は、名実ともに難攻不落の最新式の城郭だった。ただし、設計を担当したチョン・ヤギョン(丁若鏞、1762~1836)が、平地に城を建て、水路と十字路を造り、人的・物的交流が円滑に行われる多目的新都市を計画したことからすると、華城の要塞化がチョンジョの唯一の目的ではなかったようだ。チョンジョは、4日間ここに滞在して父親の墓参りをし、地域の人材を登用するため科挙試験を行った。さらに、昼夜を問わず軍事訓練を参観し、母親の還暦祝いを行い、地元の老人たちのための宴会も開いた。これによりチョンジョは、行幸の準備期間で1年、父サドセジャの墓を移転した期間からすると6年、王位に就いてからの期間まで合わせると20年にわたる焦燥の時間を経て、彼の思惑通りに構築した空間で、自分が現し強調したいと思っていたすべてのことを完璧に具現した。

外周5.7㎞、高さ4.9~6.2mの城壁で構成された華城の城郭は、遠出の翌年である1796年秋に完工した。大きく豪華な4大門と華城で一番高い八達山(パルダルサン)の頂上にある西将台(ソジャンデ)、四季折々に美しい趣のあるスリュパンファ亭 と華虹門(ファフォンムン)、さらに華城独特の石と煉瓦造りの、3カ所に建つ空心墩(コンシンドン、望楼)を含む、40余りの防御施設物のすべての工事が2年6カ月で完了したのだ。現在の華城行宮(ファソンヘングン)は、日本植民地時代に毀損され、病院や警察署や学校として使われていたものを2003年に修復したものだ。チョンジョは華城の建設に関するすべての工程を、工事記録報告書『華城城役儀軌』(ファソンソンヨクウィグェ)にまとめた。

チョンジョによる近代化
私は、なぜチョンジョは華城を建設したのだろうか、彼は君主としてどのような国を作りたかったのか、という素朴な疑問を抱いたまま、彼の足跡を追い続けた。私がたどり着いたのは親孝行、性理学に対する該博な知識と価値観を基にしたガラス張りの行政、そして強力な王権に支えられた徳による政治を行い、百姓から称えられる王朝国家の君主といった、よくできたストリーだった。彼が残した文集である『弘斎全書』(ホンジェゾンソ)や他のテキストがこれを裏付ける。

しかし彼の時代には、すでにカトリック教と陽明学はもちろん、実学の名前で18世紀西洋の科学技術が押し寄せていた。性理学にはもはや先行する学風や価値観はなかった。彼が取り組む近代化は、このような不安と不確実性の中にあった。彼はいわゆる「愛民精神」で時代の変化と適切に妥協しようとした。チョンジョは行幸のたびに、文字の読み書きができない百姓と直接会って、平均85件の苦情を処理しており、華城工事に携わった建設作業員に冬は衣服を、夏は暑さを凌げる薬剤を授けた。工事報告書には、建設作業員の名前と住所、労働日数、賃金までをきめ細かく記録した。行宮と新作路を造るため、民家を撤去しなければならない時には十分に補償をしており、凶作年には工事を取りやめた。

彼は百姓に対して恵みを施したい気持ちと、性理学の価値を絶対化する文化的な力で百姓を囲い込んだが、身分差別による対立を抑えられず、「個人の発見」という近代精神を読み取ることはできなかった。チョンジョは華城の建設が王室の陵墓を保護し、行宮を守るためだということを随時強調しており、始興路に新たに造った萬安橋(マナンギョ)も、多くの人々の期待とは異なり、チョンジョにとっては父親の墓参りのための石橋としての価値が重要だった。一世代前のヨンジョ(英祖)時代の学者シン・ギョンジュン(申景濬、1712~1781)が、『道路考』(ドロゴ、1770年)の序文で明らかにした「道というのは主人がなく、もっぱら道の上にある人が主人(路者無主而惟在上之人主之)」という考え方にも及ばなかった。これが、今日の「国民情緒」に支えられて、近代とチョンジョを強引に結び付けようとする意見が浮上する際に、歴史学者たちが最も困惑する部分である。

華城の完工から4年後の1800年、チョンジョの突然の死とともに、物事はすべてチョンジョ以前の時代に後戻りしてしまった。親衛部隊の壮勇営は廃止されて、華城は再び平凡な地方の小都市になった。人々は、華城という名前の代わりに水原をより好んだ。それから100年後にソウルと釜山(プサン)を結ぶ鉄道が水原を経由するようになった。水原の西方の歴史的外郭と南門の八達門から水原駅を結ぶ道路沿いに、新しい市街地が形成され道庁所在地となった水原は、再び注目される都市となった。このような地理的要因で水原は朝鮮戦争の最大の激戦地の一つになり、都心と華城のかなりの部分が爆撃と火災で破壊される被害を受けたが、戦後は韓国経済成長の主軸になった繊維産業の中心地となった。今日、半導体大手・サムスン電子が水原に位置しているのも、このような地理的なメリットを見据えた決定だ。

1997年4月、ユネスコから調査官として派遣されたニマル・デシルバ(Nimal de Silva)教授は、『華城城役儀軌』のコピーを手にしていた。城郭の建築物の様々な形態に魅了された彼は、この膨大で詳細な資料に改めて感心した。この義軌は、わずか200年間の歴史の中で破損と修復を繰り返してきた華城が、ユネスコ文化遺産登録への決定的な役割を果たした。これは、今日韓国社会がチョンジョをどのように見ているのかをうかがわせる。彼が残した記録の真実性が、王朝と民国、近代と前近代、個人と国家の意味を改めて思惟する手がかりとして未だ輝いているからだ。

華城で最も美しい建物とされる訪花随柳亭 (パンファスリュジョン)は、四季折々の美しい風景で大勢の人々に愛されている。「花と柳を求めて楽しむ」という意味のこの東屋は、風流ながらも軍事的監視の目的を兼ねており、石材と木材が調和をなして精巧な建築美を誇る。 © Topic

イ・チャンギ 李昌起、詩人・文学評論家
安洪範 写真
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