特集

近代化への道-20世紀初頭の韓国 特集 2 天才文人が残した近代の遺産

近代という変革期は、社会全体とその構成員を荒波のようにのみ込んだ。特に、日本の統治につながった朝鮮半島の近代は、鋭い感性と知性を持つ文人にとって過酷な時期だった。彼らは貧しい日常や病と闘いながら、それぞれの方式で時代を証言した。

短編小説『夕立』(1933年)でデビューした当時のキム・ユジョン(金裕貞)。農村を舞台にユーモアと風刺の効いた小説を残している。

パンソリ(民族芸能)の名人パク・ノクチュ(朴緑珠、1906~1979)は1924年、コロンビアレコードで初めてレコードを収録した後、多くのレコード会社から数十枚のレコードを出した。小説家キム・ユジョンが熱烈にアタックした相手としても有名だ。

イ・サン(李箱)は1929年、京城高等工業学校・建築科を首席で卒業し、建築家として活動する一方、翌年には初の長編小説『12月12日』を月刊誌に連載して文学活動を始めた。多くの詩と小説を残し、自意識の強いモダニズム的な傾向を見せた。

詩『お姉様』(1926年)でデビューしたパク・テウォン(朴泰遠)は、1930年代の代表的なモダニスト作家。初期には主に詩を書いたが、 1930年代から小説が中心になった。写真のパク・テウォンは当時、東京で流行していた髪型(おかっぱ)をしている。

韓国の伝統と文化には、常に笑いと風刺という「金脈」があった。近代文学期にその黄金を掘り出した稀有な小説家キム・ユジョン(金裕貞、1908~1937)は、豊かな大地主の2男6女の中で7番目に生まれた。彼の作品は、ほとんどが農村を舞台にしているため、農村出身の土俗的な情緒を持つ作家だと思われることが多い。江原道の春川に近い山裾のシルレ村で生まれたものの、実際には幼い頃からソウルで長く暮らしていたため、疾風怒濤のような激情、浪漫、恋愛を経験した都会の文人とほとんど変わらなかった。好きな作品としてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)を挙げ、走る車の中でロマンスを経験したことがあるとも告白している。

キム・ユジョンとイ・サン(李箱、本名は金海卿、1910~1937)は同じ時期に、ソウルの旧市街地に位置する景福宮を挟むように、ソウルで幼年期と青年期を過ごした。その二人を比べると、興味深い点がいくつもある。

イ・サンは、大韓帝国が国権を失った年に、景福宮の西にある仁王山の麓、西村で生まれた。彼は1920~1930年代の京城(現在のソウル)を風靡したモダニズムの絶頂を経験した典型的な「京城モダニスト」で、自分の人生をまとめた作品『終生記』(1937)では「僕は稲を見たことがない」と述べている。また一時期、朝鮮総督府で建築家として勤務していたこともあり、京城という都市空間と建築物を作品の素材とした。彼は朝鮮人としての民族的な自覚が強く、日本に強い抵抗感を持っていた。そのような意識は、日常的に韓服(伝統衣装)を好んで着ていたことからも分かる。妻のピョン・ドンニム(卞東琳)は、イ・サンに初めて会った時、栗色のトゥルマギ(外套)を着ていたと回想している。また結婚当時、韓服を着ていると日本の警察官に尋問されることをとても嫌っていたと話している。このような証言は、ボサボサの髪にパイプをくわえたデカダンスな姿、特有の奇異な行動、過激な逸脱とは程遠く感じられる。

キム・ユジョンは、1929年に高等学校を卒業した後、上から2番目の姉キム・ユヒョンと暮らした。写真左がキム・ユジョン、中央が姉のキム・ユヒョン、右が甥のキム・ヨンス。© 金裕貞文学村

京城の若い芸術家
キム・ユジョンも「朝鮮の服」を日常的に着ると話したことがある。彼の父は、名門の両班(朝鮮時代の支配階層)の家系で、景福宮の南東にある雲泥洞に100間もあるような広大な屋敷を構えて、春川とソウルを行き来しながら生活していた。7歳の時に母を、9歳の時に父を亡くした後、ソウルの家の近くにある斉洞公立普通学校を4年で卒業し、徽文高等普通学校に入学した。その学籍簿には「家族11人、兄弟2人、財産5万ウォン、性格は質朴、背は5尺」と記録されている。ほとんどの財産を相続した長兄は、この頃から散財し始めた。キム・ユジョンは、2年生の時に吃音矯正所に通い、落第して4年生に進級できなかった。

徽文高等普通学校に在学中、後に有名なパンソリ(民族芸能)の名唱(歌の名人)となるパク・ノクチュ(朴緑珠)に一目ぼれしてラブレターを送り、熱烈にアタックした。パク・ノクチュに拒まれると、その弟を通して自分の声を録音したレコードやプレゼントを送り続けた。自殺を図ったパク・ノクチュが入院した病院を訪れて、プロポーズもした。しかしパク・ノクチュは、自分は妓生(芸妓)で、キム・ユジョンは学生だったため、「私は男を信じないから、期待なんかしないで、帰ってほしい」と言った。その翌日、パク・ノクチュの家の前に、号泣するキム・ユジョンの姿があったといわれている。

彼は延禧専門学校(延世大学校の前身)の文科に入学したが、無断欠席して除名処分され、その後、普成専門学校(高麗大学校の前身)に再び入学した。しかし失恋の後、ごろつきとみだりに交わり、賭博や酒など好き勝手に暮らして体を壊してしまう。その結果、肋膜炎が肺結核に進み、療養生活を送る中、農村の立ち遅れた環境を改善しようと夜学を開設して住民に教え始めた。失恋の絶望に加えて、慢性的な肋膜炎と痔が重なり、廃人のような生活をしていたが、結局故郷に帰ることになる。その頃から小説を書き始め、高校時代の友人で小説家のアン・フェナム(安懐南)の手助けで、1993年に短編小説『山里の旅人』を文芸雑誌に発表して小説家の道を歩むことになる。

『友人の肖像』ク・ボンウン(具本雄) 1935年、キャンバスに油彩 62×50㎝
親しかった画家ク・ボンウンが描いたイ・サンの肖像画。イ・サンの反抗的な内面と気質が、うまく捉えられている。 © 国立現代美術館

疾風怒濤の激情
イ・サンは、画家ク・ボンウン(具本雄)、小説家パク・テウォン(朴泰遠)と生涯、友人であり続けた。特に、隣町で生まれ育ったク・ボンウンとは「せむしの画家」と「肺病の変わり者詩人」とで仲が良く、有名でもあった。イ・サンというペンネームをつけたのも、妓生のクムホンに出会ったのも、喫茶店「チェビ(ツバメの意)」を開いたのも、職場を得たのも、全てク・ボンウンのおかげだった。パイプをくわえたイ・サンを描いた『友人の肖像』の作者もク・ボンウンだ。イ・サンの妻ピョン・ドンニムは、ク・ボンウンの継母の妹だった。その妻は、後に画家キム・ファンギ(金煥基)の妻になって、キム・ヒャンアンに改名する。

イ・サンは、小説家パク・テウォンとも親友だった。パク・テウォンの中編小説『小説家仇甫氏の一日』(1934)が朝鮮中央日報に連載された時、挿絵を描いている。また、パク・テウォンの結婚披露宴の芳名録の1ページ目には、結婚後なかなか会えなくなることを心配して「面会拒絶は絶対反対」と記した。パク・テォンは、イ・サンを主人公にした小説『愛欲』(1934)も残している。

イ・サンとパク・テウォンは、1933年にソウルで作られた文学団体「九人会」のメンバーとして共に活動した。九人会という団体名は、メンバーが何度か変わっても常に9人だったことに由来する。理念にとらわれない純粋な芸術を求めたこの団体には、優れた中堅作家と最高の新人作家が参加したため、文壇でも認められた。結局3~4年で解散してしまうが、それぞれ個性的な創作活動を通じて、近・現代文学史において豊かな土壌となった。

日本統治時代を生きる知識人の不安定な内面に踏み込んだイ・サンと、農村社会の疲弊した現実を主な素材にしたキム・ユジョンの作品世界は、大きく異なる。それでも二人は、互いの芸術の心を理解していた。

貧困と肺病の中で
キム・ユジョンは、日本によって夜学が強制的に閉鎖されてから仕事がなくなり、病状も再び悪化して、いたずらに時間を過ごすようになった。相続した財産がほとんど底をついたため、叔父や姉の家を転々としていた。その頃、ソウルに住んでいた2番目の姉は食堂に、キム・ユジョンは創作にそれぞれ専念するようになる。アン・フェナムに励まされながら原稿を書き、生計を立てるという覚悟で努力を重ねた。

彼はデビューから2年後の1935年1月、朝鮮日報と朝鮮中央日報の新春文芸にそれぞれ『夕立』と『大当たり』が選ばれ、一躍文壇の注目を集める新人作家になった。そして、九人会に入ったキム・ユジョンは、既存のメンバーだったイ・サンと知り合う。二人は共通点が多かった。まずイ・サンは、天罰でも下ったかのような肺結核に常に苦しめられており、キム・ユジョンも同じ病気を患っていた。キム・ユジョンが幼く両親を亡くしたように、イ・サンも叔父のところに養子に出されて、実の親と離れて暮らしていた。また、二人とも貧困にあえいでいた点などから、絆を感じるようになった。

イ・サンの代表作としては、朝鮮中央日報に連載されたものの、あまりにも難解だと読者から非難を浴びて連載が打ち切られた詩『烏瞰図』(1934)、何もすることがなく退屈な日々を送る主人公を通して、近代の知識人の矛盾した自意識を描いた短編小説『翼』(1936)などが挙げられる。日本統治時代を生きる知識人の不安定な内面に踏み込んだイ・サンと、農村社会の疲弊した現実を主な素材にしたキム・ユジョンの作品世界は、大きく異なる。それでも二人は、互いの芸術の心を理解していた。さらに、イ・サンはキム・ユジョンを素材にした短編小説『キム・ユジョン』(1936)を残している。その小説の中で「帽子をポイっと投げ捨て、トゥルマギもマゴジャ(重ね着する上着)もサッと脱ぎ捨て、両袖を捲り上げて拳では敵の頬を、足では敵のまたぐらを撃破するも、勢い余って尻もちをついてしまう希有の闘士がいる。キム・ユジョンだ」と述べている。

キム・ユジョンは1936年の春、病状が悪化した際、医師からこの秋を越せないと宣告されても、酒を飲み続け、連日徹夜で原稿を書く生活を続けた。その後、夏にはソウルの貞陵の近くにある山の庵で療養した。酒とタバコをやめ、規則正しい生活をすると、病状は一時好転した。その時、イ・サンはキム・ユジョンを訪ねて、心中を持ちかけたといわれている。しかし、キム・ユジョンは胸をはだけて、骨と皮だけになった胸を見せ、「明日への希望が、メラメラと燃え上がります」と断った。イ・サンは、苦しそうに息をするキム・ユジョンを見つめ「僕は日本に行きます」と別れの挨拶をすると、キム・ユジョンは大泣きしたという。

致命的な病に苦しみながらも、キム・ユジョンは2~3年間、まさに残りの命を燃やすように創作に没頭した。その結果、短編小説約30編、随筆約20編、長編小説1編、翻訳本1冊を残した。彼は1937年3月18日、アン・フェナムへの手紙で「僕は日々消えていく。もう、うまく起き上がれなくなっている。夜には不眠症で、つらい時間を恨みながら横たわっている」と切迫した状況を述べている。それでも「僕は本当に立ち上がりたい。今の僕は、病魔と最後の談判をしている。今すぐお金が必要だ。そのお金がないのだ。僕は100ウォンをこしらえてみようと思う。友人のことを思って、どうか助けてほしい」と生への執着を見せた。

キム・ユジョンは、そのお金で鶏と蛇を買い込んで、煮込んで食べようとしていた。そうした回復への切実な思いを見せたが、返事を受け取る前の3月29日早朝にこの世を去った。そして、約20日後の4月17日に、イ・サンも東京の病院で肺結核によって息を引き取った。イ・サンの肺を診断した日本人の医師は「この患者には、肺と呼べるようなものがほとんど残っていない」と話したという。不遇な二人の天才作家は、20代という若さで次々と他界した。

月刊誌『朝光』(1935年12 月)に発表したキム・ユジョンの短編小説『春春』(左)は、小作人の婿養子と義父との葛藤を喜劇的に描いた小説。その後、同誌(1936年 5月)に発表した『椿の花』(右)では、思春期の少年少女の心理をユーモラスに描写している。

日本統治時代、農村と都市の下層の現実
キム・ユジョンの主な作品としては『金を掘る豆畑』、『春春』、『椿の花』が挙げられる。この3作品にはユーモアの要素が多く、魅力的な方言と土俗的な単語がうまく調和している。予想外の展開とどんでん返し、猥談と俗語をうまく用いることで、誇張と滑稽、愚かに見えるとぼけぶりの裏で、そこに隠された賢明さと鋭い風刺を表現している。何よりも文章が面白く、当時の田舎の風景に密着した目線で生き生きと叙述している。

キム・ユジョンは生前、パク・ノクチュの主なレパートリーだった『興甫歌』と『春香歌』の台詞を暗唱できるほど好んで聞き、寝ている間もユクチャペギ(全羅道の民謡)を聞くのが嫌ではないと話していた。彼の小説には、パンソリの豊かなユーモアと音楽性が溶け込んでいる。文章や台詞も口語体を超えて「口演体」とでもいえるほどで、「興」や「シンミョン」と呼ばれる盛り上がりが中心になっている。彼の短編小説の登場人物は、ほとんどが実在の人物をモデルにしており、小説の舞台も当時の人口の大部分を占めていた農村だ。そのため、当時の様子が目の前に広がっているように感じられる。

彼の小説は、1930年代の日本統治下の農村社会の暗い現実を顕微鏡のように描写する自然主義的な細密画だ。叙述は戯画的で土俗的だが、その中心には、生きるためには最低限の倫理さえ投げ捨てざるを得ない支配下の朝鮮社会、さらにその大部分を占める農村の悲惨な現実がある。

『春春』は単純な恋愛小説ではなく、小作管理人と小作人の搾取関係が背景にあり、『金を掘る豆畑』は一見ユーモラスだが、友達や夫婦が殴り合いのけんかをし、一向に良くならない絶望的な現実を描いている。『夕立』では、夫が賭博に必要な金を得るため、村の有力者に対して妻が売春するように勧めている。

『太陽がぎらぎら』では、難病を治してお金までくれるという噂だけを信じて、夫は病気の妻を背負子で担いで家を出る。だが、妻のお腹には亡くなった赤子がいるという診断を受ける。さらに、病気を治すのになぜ金がもらえるんだと病院から言われ、家に帰っていく物語だ。死んでもお腹を切ることはできないから、早く家に帰ろうという妻は、借りた米と洗濯の心配をし、夫はそれを遺言のように聞きながら、ギラギラと照り付ける太陽の下、再び妻を背負子で担いで黙々と歩いて帰る。

その他の作品にも、当時の悲惨な生活と悲劇的な社会状況が描かれている。治る見込みのない肺病によって喀血しながら、小さな部屋で一文字一文字、鉛筆で原稿用紙を埋めていった作家の状況を思い浮かべると、とても切なくなる。彼の作品に表れているユーモアは外形に過ぎず、本質的には当時の農村と都市の下層の人々の悲惨な現実が反映されている。そのような現実

を生きる作家にとって、その悲惨さや残酷さこそ、命を賭けて掘り出すべき「金脈」だった。キム・ユジョンは、誰よりもよく知っていたのだ。 「あなたは、この世に何を残したいですか」という雑誌のインタビューに、彼は「そうですね。色々ありますが、おそらく結核菌以外には何も残らないんじゃないでしょうか」と答えた。しかし、満月のように「フワッと空高く浮かび上がり、そこで一生老いていきたい」と話したこともある。その言葉通り、彼の作品は鮮やかに輝く満月となり、韓国近代文学の地平を明るく照らしている。


小説家・仇甫と 1930年代のソウルを散策

仇甫(クボ)は今日も正午に、相も変わらず大学ノートとステッキを手に家を出る。「別に行くあてもない」彼が翌日の深夜、家に帰るまでの道のりを描いたパク・テウォン(朴泰遠、1909~1986)の中編小説『小説家仇甫氏の一日』は、メタフィクションの性格を帯びた自伝的作品として広く知られている。パク・テウォンは1909年にソウルで生まれ、朝鮮戦争中の1950年に北朝鮮に渡って創作活動を続けた後、1986年に亡くなった。この小説は1934年8月から約1カ月間、朝鮮中央日報に連載された。その挿絵は、パク・テウォンと共にモダニズム文学をリードした詩人イ・サン(李箱、1910~1937)が描いている。パク・テウォンと仇甫の内面世界が交差する道筋に沿って、当時のソウルの近代的な都市風景をたどる。

鍾路の通りに出た仇甫は、行くあてもなく電車に乗って東大門まで行き、折り返してきて朝鮮銀行の前で降りて喫茶店に入る。午後2時の喫茶店には、同じようにやることのない人たちがお茶を飲んだりタバコを吸いながら、話したり音楽を聞いたりしていた。

朝鮮中央日報に1934年8月から連載されたパク・テウォンの中編小説『小説家仇甫氏の一日』に、詩人イ・サンが描いた挿絵。

植民地都市の憂鬱な青春
仇甫の母は、東京に留学までしたのに、26歳になるまでまともな職に就けず、結婚もせずに物書きをする息子がとうてい理解できない。仇甫は今日も、そんな母の心配をよそに家を出る。行くあてもない彼は、線路を渡って和信商会(1931年創業の韓国初の百貨店、当時の京城で最も高い建物)をじっと見つめて中に入る。そこでエレベーターを待つ子連れの若い夫婦を目にして、うらやましく思う。ふと自分はどこで幸せを見付けられるのかと自問する。

鍾路の通りに出た仇甫は、行くあてもなく電車に乗って東大門まで行き、折り返してきて朝鮮銀行の前で降りて喫茶店に入る。午後2時の喫茶店には、同じようにやることのない人たちがお茶を飲んだりタバコを吸いながら、話したり音楽を聞いたりしていた。ほとんどは若者で「薄暗くまだらな明かりの中、それぞれの憂鬱と苦悩を訴えている」ように見える。仇甫は頭の上にかかっているある画家の絵を見て、西洋かせめて東京にでも行く金さえあれば、きっと幸せになれるだろうと考える。

仇甫がコーヒーとタバコを頼んだ喫茶店は、現在の小公洞で朝鮮ホテルの近くにあった楽浪パーラー(1931年開店、京城で初めて韓国人が経営する喫茶店)。店主は画家で、2階はアトリエ、1階は喫茶店として使われた。毎週金曜日にはビクターレコードの新曲を流し、画家の個展や詩人の出版記念会も開かれたため、多くの芸術家が集まった。パク・テウォンも参加した純文学の小さな集まり「九人会」の会員にとってもアジトだった。

金を追う者
店を出た仇甫は、京城府庁の方へ歩いていき、徳寿宮の大漢門を見つめて「貧弱な昔の宮殿は、人を憂鬱な気分にさせる」と考え、忙しく行き交う人たちの中しばらく呆然とする。そして、普通学校時代の友人に偶然会って喜ぶが、みすぼらしい格好の友人が冷たく挨拶だけして去ってしまうと、残念で寂しく思う。

仇甫は気晴らしのため、人が集まる京城駅の待合室に足を運ぶ。しかし「人の温情など誰からも感じられない」人波の中で、老いて病んだ女性、地方から来た商人、他人を探るような怪しい男を目の当たりにし、乖離と悲しみを感じて、かえって大きな孤独を募らせる。彼は、評論家や詩人のような文人でさえ一攫千金を夢見る「黄金狂時代」に生きているという事実を思い起こす。そこでも中学校時代の同級生に偶然会うが、質屋の息子で教養など全くない。その同級生が美しい女性と一緒にいるのを見て、二人が肉体と金銭を交換して、それなりの幸せと快楽を分かち合っていると決め付ける。

その後、詩人で新聞社の社会部で記者をしている友人に電話をかけて、喫茶店で会う。その友人は、金のために毎日強盗殺人や放火の記事を書いているとぼやいて、仇甫の小説についても論評する。二人はジェイムズ・ジョイス(1882~1941)の話をしてから店を出る。その友人は、すぐに夕食のために家に帰ると言って、電車に乗り込む。仇甫は、その友人が生活を持っているから自分とは違うと理解しようとする。

小説に登場する和信商会は1931年創業で、韓国初の近代的な百貨店。現在の鍾路の交差点にあったが、1987年に道路の拡張に伴い撤去された。© 韓国コンテンツ振興院

京城駅(旧ソウル駅舎)は、1900年に10坪ほどの木造建築で建てられたが、利用客の増加によって1925年に地下1階、地上2階へと建て替えられた。当時は、東京駅と共に代表的な大型建築物だった。2003年には高速鉄道の駅舎が新築され、旧ソウル駅舎は公演や展示会を開催する複合文化空間として使われている。

黄昏の孤独
仇甫は、寂しさを感じつつ鍾路の交差点の辺りをぶらつき、鍾路警察署の前を通り過ぎて、小さな喫茶店に入って店主を探す。店主は友人だ。店主は外出中だが、すぐに戻ってくると聞いて、座って待つことにする(詩人イ・サンが、恋人で妓生のクムホンと1933年から2年ほど経営したチェビ喫茶店)。当時の雑誌の記事によると「前面がガラス張りで異色」なこの喫茶店で、客はお茶を飲みながら、ストッキングにハイヒールを履いて鍾路を行き交う女性を窓越しに眺めていたという。仇甫は、そこで友人を待つ間、東京留学中に恋した女学生のことを思い浮かべる。

喫茶店を出て、友人とソルロンタン(牛の肉や骨を煮込んだスープ)を食べてから別れた後、光化門の通りを再び一人で歩く。10歳の子供は春の歌を歌い、二人の酔っぱらいは肩を組んで愁心歌(悲しい旋律の韓国民謡)を歌いながら、そばを通り過ぎる。角帽をかぶった学生と若い女性が肩を並べて通り過ぎると、仇甫は二人の愛を祝福する。

街で友人の甥に出会った仇甫は、スイカを買い与えて、再び友人との待ち合わせ場所である楽浪パーラーに向かう。その途中、電報を配達する郵便の自転車を見て、自分宛ての1枚の電報を手に感動したいという衝動を感じる。それから、数千枚の葉書を買って、喫茶店の隅のテーブルで友人に手紙を書く自分の姿を想像して、しばし悦に入る。

東京美術学校を卒業した画家イ・スンソク(李順石)が、1931 年に開店した楽浪パーラーは、現在の小公洞で朝鮮ホテルの近くにあった。京城(現在のソウル)のモダンボーイがよく訪れるアジトでもあった。

深夜の鍾路の街
仇甫は喫茶店に入り、隅の席でバイオリニストのミッシャ・エルマン(1891~1967)が演奏するチャイコフスキーの「感傷的なワルツ」を静かに聞く。その時、店で仲間と高価なビールを飲んでいた生命保険会社の外販員が、彼に気付いて同席を勧める。仕方なく一緒に座った仇甫は、小説まで貨幣の価値に換算する彼らに不快感を覚える。ちょうどその時、ドアを開けて友人が入ってくると、一緒に店を出る。

貧しい詩人と貧しい小説家の二人は、互いに憂鬱な気持ちを抱えて、鍾路カフェ(当時、有名だった大規模な社交場・カフェエンジェルと推定される)で酒を飲む。だが、友人は酒を飲んでも味が分からない「飲酒不感症」。仇甫は、それがある種の精神病だと言い、もしかしたら症状はそれぞれ違っても、世の中の全ての人が精神病の患者なのかもしれないと主張する。

店を出ると深夜2時の鍾路の街は、雨が降っているにも関わらず、依然として多くの人が行き交っている。ふと仇甫は、寝るに寝られず自分を待っている母の「小さく、寂しく、悲しい顔」を思い浮かべる。それから「また明日」と挨拶する友人に「明日から物を書く」と答えて、急ぎ足で家に向かう。家を出る時には自分の幸せを探していたが、いつしか母の幸せを考えながら。

ソン・ソクチェ 成碩済、小説家
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