特集

近代化への道-20世紀初頭の韓国 特集 3 近代の扉を開けて 飛び出した女性

男女の社会的な役割を区分・差別した儒教的な禁忌と束縛から抜け出し、西洋式の教育を受けた一部の新女性は、身を挺して近代を生きる時代の象徴だった。彼女らは、服や髪型で新しい風俗を生み出し、男性と対等な権利を行使して、自分が選んだ男性と恋愛・結婚するという自由を夢見た。しかし彼女らは、しばしば悲劇的な運命を迎えた。

外出さえままならなかった朝鮮の女性にとって、近代は教育の機会と共に、自分の意志で行動する権利をもたらした。しかし、そうした権利を思いのままに行使できたわけではない。新思想によって新しい生き方を求めた新女性は、多くの場合、非難や挫折に遭った。

近代韓国の代表的な風刺小説家チェ・マンシク(蔡萬植、1902~1950)は、汽車でのある女性との出会いを描写した短編で文壇にデビューした。その小説は1924年『新しい途へ』というタイトルで著名な文芸誌に掲載された。これといったストーリはなく、ただ走る汽車の中で「白い肌に涼しげな服装の女学生」と何度も目が合ったという、今では何の変哲もない状況だけで構成されている。しかし当時は、若い男性が見知らぬ女性の近くに座って、長い時間を過ごすことは極めて異例だった。そのため、そうした経験を与える汽車という近代的空間は、小説の素材になるほど特別だったのだ。さらに、その女性は、日常ではあまり出くわすことのない「新女性」だった。

主人公の青年は、その女性について「チョクサム(単衣の上衣)も白く、スカートも白く、肌着も白く、膝まで上げた靴下も白く、白粉をつけた顔も白く、ただ先の尖った踵の高い靴と、おしゃれに緩く編んだ艶めかしい髪だけが真っ黒だった」と描写している。当時は社会的に少数だった女学生と間近で2回ほど目が合っただけで、ときめく心を隠せない青年の心情描写に、当時の文壇はデビューという栄誉を与えた。その小説が発表された1920年代前半、女学生との出会いは珍しくて特別な「事件」だったのだ。19世紀末から20世紀初めの開化期の朝鮮半島を舞台にした最近の人気テレビドラマ『ミスターサンシャイン』では、主人公の両班(朝鮮時代の支配階層)の娘が、チャンオッ(顔を隠すために頭からかぶる衣被)を脱ぎ捨て、西洋人の女性教師の学堂で英語を学ぶ。しかし、女性が学校に通うことは、1910年代まで極めて珍しいことだった。

『二八青春』(1926年)は、大成書林の 発行人で編集者だったカン・ウニョン(姜殷馨)の大ヒット恋愛小説。その当時、自由な恋愛が新しい風俗として広がり、恋愛をテーマにした小説が広く流通していた。©オール・ザット・ブック

汽車で出会った女学生
韓国初の近代的な女性教育機関である梨花学堂が、1886年にアメリカ人宣教師によってソウルの貞洞に設立された。しかし、1910年代まで学生の募集は難しかった。教師が「娘さんや姉妹をどうか学校に通わせてください。無料で勉強を教えます」とお願いして回っていたほどだ。しかし、1919年の三・一運動に梨花学堂の学生が積極的に加わったことが知られ、状況が一変した。入学を希望する学生が大きく増えたため、全て受け入れられなくなったのだ。それでも、社会全般において女学生数が多かったわけではない。朝鮮総督府の統計によると、1923年の中等学校の女学生数は公立・私立7校を合わせて1370人だった。これは女性の全人口の0.6%ほどで、中等以上の教育を受ける女学生は、それよりもはるかに少ない0.03%に過ぎなかった。

このように極少数に過ぎない女学生は、世間から大きな注目を集めた。その後、程なくして「新女性」という名前で、新しい集団的なアイデンティティーを持ち始めた。新女性は、何よりも見た目から目を引いた。短いスカート、ヒールの高い靴、黒い傘、流行に合わせて変わるヘアスタイルで、アイデンティティーを表した。衛生と活動性のために韓服(伝統衣装)のスカートをふくらはぎまで縮めた黒い筒状のスカートと白いチョゴリ(上着)は、梨花学堂や貞信女学校など多くの学校が制服とし、当時の女学生の象徴だった。黒い傘は、それまでのスゲチマ(衣被)の代わりに顔を隠すために使われたが、徐々に明るい色の洋傘に変わり、アクセサリーの一つになった。洋傘だけでなく靴、靴下、ベルト、マフラー、ハンカチ、メガネなどの小物が流行に合わせて変わり、新女性の社会的な身分や地位を物語っていた。

特にヘアスタイルは、新女性を規定する重要な物差しになった。髪全体を丸く膨らませ、後頭部で丸く結った形が牛糞のようで「セトン(牛糞)モリ(髪)」と呼ばれた日本式の庇髪(ひさしがみ)、それを改良したトレモリ(編んだ髪を頭の上に巻いた髪型)、そして1920年代半ばに再び流行った韓国伝統のテンギモリ(三つ編み)、タリコクチと呼ばれた入れ髪など、髪型も様々に変化した。さらに、大胆な短髪を女性解放のシグナルと考える女性も現れた。短髪は経済的、時間的、衛生的な利便性によって新女性に支持されたが、「髪が命の女性の美しさを奪った」という理由で、眉をひそめる男性も少なくなかった。

このように新女性は、自分の目にも他人の目にも特別に見え、他とは違う人生を生きることで、自らを「旧」と区分される「新」として確立しようとした。筒状のスカートと先の尖った靴は、単なる装いではない。自分の意思で恋愛し、ピアノのある文化住宅で新式の家庭を築き、夫と対等な権利を行使して、新しい思想で未来世代を教育しようという新女性の願いが込められた文化的象徴だった。 しかし当時の社会は、彼女らの望みを簡単に肯定し受け入れたわけではない。女学生の数が大きく増加し、新女性の服装が話題になるにつれ、非難の声も上がった。当時の新聞や雑誌は、彼女らの「ぜいたくと見栄」を強く批判した。その頃、靴1足の値段が米2俵に相当したので、着飾るための費用が実際に少なくなかったのも事実だ。

『春の調べ』キム・インスン(金仁承) 1942年、キャンバスに油彩、147.2×207㎝ 第21回朝鮮美術展覧会(1942年)に出品されたキム・インスンの代表作。2枚の大型キャンバスにチェロの演奏を鑑賞する新女 1 性を描いている。 © Bank of Korea

憧れと非難
1920年代半ば以降、学校だけでなく街中、音楽会、講演会、劇場、公演など公の空間に女性が進入した。このように女性の活動範囲が広がると、学校側は厳しい規律を設け、女学生をコントロールした。許可なしに活動写真を見に劇場に行ったり、音楽会に行くことを禁止した。出かける際は、家族や他の学生と同行しなければならず、教科書ではない雑誌や書籍を持っている場合は、届け出るようにした。また、下宿は風紀を乱すという理由で寮を強く勧め、さらに手紙のやり取りまで厳しく制限した。

「風紀紊乱」という曖昧な言葉が流行ったのも、ちょうどその頃だ。派手な服装をしたり、カフェや飲食店に通ったり、授業をサボって映画を見に行くのも、風紀紊乱に該当した。最も危険な風紀紊乱は、男女の交際だ。親の許可なしに男子学生に会ったり、付き合うことは退学に当たる「悪行」と規定された。女学生は、精神的に弱く未熟なので、衝動と誘惑から守るべきだという考えが、全ての規律の根底にあった。そうした考えは、女性は性的な純潔を守るべきだという男性中心の観点に根ざしていた。

女学生を厳しい規定でコントロールしようとした理由は、新女性に象徴される近代が、相対的に華やかで可視的だった点とも関係している。1920~1930年代の朝鮮半島の知識人は、自らの力で近代国家の建設に失敗し、植民地的な近代化に従属するなど、屈折した人生を生きるしかなかった。そのような状況で、新女性の求める理想と人生は、周辺の暗い現実とはかけ離れていた。女学生への憧れと非難という二重性には、近代国家の建設において主体になれなかった知識人男性の二面的な感情が隠れている。彼らにとって女学生は、近代性の象徴であると同時に「放漫で下品な偽物の近代」という危険で不純な象徴でもあった。

筒状のスカートと先の尖った靴は、単なる装いではない。自分の意思で恋愛し、ピアノのある文化住宅で新式の家庭を築き、夫と対等な権利を行使して、新しい思想で未来世代を教育しようという新女性の願いが込められた文化的象徴だった。

三・一運動で収監された後、出所記念の写真撮影をするスピア女学校の学生。スピア女学校は、女学生の近代的な教育のため、1908 年にアメリカ人宣教師ユージン・ベルによって全羅南道・光州に設立された。女学生数は全国的にも多くなかったが、大部分の女学生が三・一運動に積極的に参加した。 © スピア女子高等学校

恋愛と自殺
近代以前の朝鮮社会で、結婚はあくまでも親によって決められ、個人が自分の意思で配偶者を選ぶことは全く不可能だった。英語「love」の翻訳語として日本から入ってきた造語「恋愛」は、当事者の自発的な意思による西洋の結婚方式を広める語彙として、爆発的な反応を引き起こした。恋愛は、親が仲介する結婚を拒み、自分の意思で配偶者を選ぶ新しい風習として、ある種の社会的なブームを巻き起こした。それは貧富、貴賤、学識の違いを超越した高貴な感情と見なされ、若者が自らを人生の主体と認識する観念的な行動原理になった。そのため、恋愛の実践が啓蒙的な人生の実践と同一視される独特な状況が生じた。

しかし、恋愛という新思想に接し始めた頃、多くの若い知識人は、すでに過去の慣習によって親が決めた女性と結婚していた。彼らは親が決めた女性との結婚を拒否して、自分が選んだ女性と暮らしたいと考えた。その結果、学校内に「離婚同盟会」という集まりが作られ、婚姻無効化運動まで繰り広げられた。

望み通り離婚できない場合、自分が選んだ女性と同棲することも多かった。恋愛と自由な結婚が、啓蒙的な人生を実践する一つの方法だという信念が確立された以上、彼らにとって糟糠の妻を捨てたり、好きな女性と同棲することは、至極正当な社会的実践だった。結婚せずに同棲する女性は「第二婦人」とも呼ばれた。そのような風潮は、新女性と旧女性の両方に苦痛を与えた。

現実と理想の明らかな不一致を目の前にして、若者はより激しい情熱で、自我の純粋性を確認しようとした。高まった期待と激情は、自殺という過激な行動に走らせた。1920年代半ばから流行のように広がった「情死」の裏には、そのような事情があった。1923年にネズミ駆除剤を食べて、愛する男の膝の上で息を引き取った23歳の女性「カン・ミョンファ事件」が、新聞と雑誌で大きく取り上げられた。妓生(芸妓)のカン・ミョンファは、大金持ちの息子チャン・ビョンチョンと恋に落ちたが、彼の家族に強く反対されて自ら命を絶ったのだ。チャン・ビョンチョンは一時期、彼女と共に日本に逃れたが、留学生仲間から韓国人の名誉を汚すと非難されたこともある。そのチャン・ビョンチョンも、程なく彼女を追って同じ方法でこの世を去った。カン・ミョンファの名は、恋愛の純潔な精神を称える代名詞として人々の胸に深く刻まれた。二人の物語は、その後数十年間いくつかの小説になり、歌や映画にもなった。

1926年に下関から釜山に向かう船で玄界灘に身を投げ、共にこの世を去ったキム・ウジンとユン・シムドクは、カン・ミョンファ事件よりもセンセーショナルだった。二人は当時29歳で同い年。キム・ウジンは、東京で芸術を学ぶ朝鮮半島からの留学生が1920年に作った劇芸術協会の発足メンバーで、近代演劇の先駆者だった。ユン・シムドクは、韓国初のソプラノ歌手として名声を博した名士だった。すでに多くの浮名を流した音楽会のスターと、妻子持ちの有名作家の心中には、非難が寄せられた。妓生のカン・ミョンファとは違い、ユン・シムドクに対する人々の視線は好意的でなかった。

不憫と憧れの視線を受けようが、非難と後ろ指の対象になろうが、叶わない恋による若い男女の相次ぐ心中は、大きな社会問題となった。1920年代半ば以降、1日に3~4件が新聞で報道されることもあった。これは感情の自由に対する若者の願いが、劣悪な環境にぶつかることで生じた悲劇的な結果だ。その当時、恋愛をテーマにした作品が、大きな関心を集めて広がりを見せていた。そうした韓国の初期近代小説は、その頃の若い男女の死の多様な様相を描いている。例えば、イ・グァンス(李光洙、1892~1950)の『ユン・グァンホ』(1918)では報われない想いによって、ナ・ドヒャン(羅稲香、1902~1926)の『幻戯』(1923)では間違った選択の罪滅ぼしのため、パン・ジョンファン(方定煥、1899~1931)の『その日の夜』(1921)では恋人の裏切りによって、それぞれ死を選んでいる。

死は、恋愛という理想の前で、自我の純粋性を証明する方法だった。さらに、理想と現実の不一致にあらがう強力な抵抗の表れでもあった。若者は、完全な愛という理想とは遠くかけ離れた現実の問題にぶつかり、死という歪んだ形で主体性の絶頂を迎えたのだ。

早稲田大学・英文科を卒業したキム・ウジンは、大学生の頃から戯曲を書いて演劇を演出した。自殺した1926年に書いた『難破』は、儒教的な家族構造の中、西欧の思想を身に付けた若い詩人が没落していく過程を描いた自伝的な作品。

ユン・シムドクは、韓国で初めて西洋音楽を専攻した女性声楽家で女優。京城(現在のソウル)で開かれる多くの音楽会の出演依頼を受けるほどのスターだった。ヒット曲『死の賛美』は、かなわぬ恋に絶望し、死を決意して書いた歌詞だといわれている。 © 中央日報社

未完成の夢
パク・ワンソ(朴婉緒、1931~2011)の自伝的小説『母さんの杭』(1979)で、幼い「私」は新女性になれという母の望みと強要に悩まされる。「新女性って何?」という私の質問に、母はまず見た目を描写する。つまり、新女性とは「チョンモリ(髪を後ろで束ねてかんざしを挿す髪型)の代わりに庇髪をして、ふくらはぎが出る黒い筒状の膝丈スカートを履いて、ハイヒールにハンドバックを持ち歩く女性」というものだ。髪に紅色のテンギ(リボン状の布)をつけて黄色のスカートを履き、コッシン(花柄の伝統的な履物)を履きたい幼い娘にとって、どうにも気に入らない服装だ。私はもう一度尋ねる。

「新女性って何をするの?」

今度は少し困ったような表情で、母は次のように答える。

「新女性は、たくさん勉強して、世の中の道理を何でも分かっていて、自分が決めたことは好きなようにできる女性よ」

日本統治時代の末期、針仕事で子供を勉強させるという一念で、田舎からソウルに移り住んだ母が夢見た娘の未来は、そのようなものだった。朝鮮社会が近代という西洋の文物に初めて接し、生活と認識の激変を経験した当時、古い慣習を捨てて閨房(女性の部屋)を出た女性が希望し夢見た未来も、そのようなものだったのかもしれない。ようやく日本の支配から解放され、戦争の惨禍を経て、目まぐるしい経済成長と共に社会的発展を成し遂げた今、女性の現在はその母の夢にどれほど近づいたのだろうか。

キム・ジヨン 金芝英、大邱カトリック大学校国語教育科教授
페이스북 유튜브

COMMENTS AND QUESTIONS TO koreana@kf.or.kr
Address: 55, Sinjung-ro, Seogwipo-si, Jeju-do, 63565, Republic of Korea
Tel: +82-64-804-1000 / Fax: +82-64-804-1273
ⓒ The Korea Foundation. All rights Reserved.

SUBSCRIPTION

Copyright ⓒ The Korea Foundation All rights reserved.

페이스북 유튜브