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近代化への道-20世紀初頭の韓国 特集 4 ポピュラー音楽絶望の中で咲いた花

20世紀初頭、韓国に入ってきた海外のレコード会社によって商業用レコードが発売され、そのレコードを聞くための蓄音機が日常生活に浸透することで、ポピュラー音楽が韓国で本格的に広がり始めた。初期のポピュラー音楽は「ジャズソング、漫謡(コミックソング)、新民謡、流行歌(トロット)」という四つのジャンルに分かれ、当時の社会状況や情緒を反映していった。その音楽が、現在のK-POPの強い基盤になっている。

2018年の韓国のポピュラー音楽界で最も大きな話題は、BTS(防弾少年団)だった。BTSは記録をいくつも更新し、韓国だけでなく世界のポピュラー音楽の歴史まで書き替えた。その中でも、1年間に2枚のアルバムが「ビルボード200」で1位になったことは注目に値する。韓国の歌手として初めてで、外国語のアルバムとしても最初の記録だ。

最近、BTSをはじめ多くのK-POP歌手とその歌が、海外から熱狂的な支持を受けている。まさに隔世の感がある。100年ほど前に主権を奪われ、悲しみと自嘲の中でポピュラー音楽が生み出された頃には、誰も予測できなかっただろう。

アメリカ人宣教師で教育家のホーマー・ハルバートは、口伝されてきた『アリラン』を初めて五線紙に記録し、民謡の楽譜集の制作・普及も行った。

蓄音機と商業用レコード
ポピュラー音楽は「大衆」という概念と共に、近代と同時に始まった。もちろん、近代以前の朝鮮半島において、流行した歌が全くなかったわけではない。例えば、韓国を愛した外国人として知られるアメリカ人宣教師で教育家のホーマー・ハルバートは、韓国で発行された最初の英語雑誌『The Korean Repository』の1896年2月号において「Korean Vocal Music」というタイトルで『アリラン』の歌詞と楽譜を紹介している。彼はアリランについて「韓国人を代表する歌であり、韓国で最も人気のあるご飯のような歌」と説明している。当時、ホーマー・ハルバートが紹介したアリランは「旧アリラン」で、現在よく知られている「本調アリラン」とは異なる。それでも、当時のアリラン人気をうかがい知ることができる。

このようにポピュラー音楽が本格的に登場する前にも、その時代の人たちから愛された歌は存在していた。しかし、それらの歌が、現在のようなポピュラー音楽と区別される点がある。

初期のポピュラー音楽は、レコード産業と密接な関連があり、最先端のメディアを通じて登場した。その商業用レコードの究極的な目的は、利潤の追求にあるため、ポピュラー音楽は芸術作品であると同時に商品でもある。その点で、ホーマー・ハルバートによって取り上げられた『アリラン』は、ポピュラー音楽のカテゴリーには属さない。

韓国のレコード産業は1907年、アメリカのコロンビアレコードが初めて商業用レコードを発売することで始まった。コロンビアレコードは、京畿名唱(歌の名人)ハン・インオ(韓寅五)と妓生(朝鮮の芸妓)チェ・ホンメ(崔紅梅)の歌を録音して発売した。それに続いてビクターレコードも、韓国の伝統音楽を収録した。その後も、当時名の知れた名人のレコードが相次いで発売された。その当時のポピュラー音楽の普及において、革新的な役割を果たしたのが蓄音機だ。1920年代の後半に朝鮮半島でラジオ放送が始まる前、西欧の新しい文物の蓄音機が上流社会の日常に浸透し、音楽の発展と大衆化に大きく貢献した。

『静聴』キム・ギチャン( 金基昶)1934年絹本彩色 159×134.5cm キム・ギチャンは、 1930年代の近代的な西洋風の家庭を描くため、近くに住む医師の手入れが行き届いた応接室を借りたという。キム・ギチャンの初期の作品で、師のキム・ウノ(金殷鎬)の日本的な彩色画から影響を受けている。 © 国立現代美術館

ジャズソングとモダンボーイ、モダンガール
ほとんどの新しい文化と同様に、韓国の近代ポピュラー音楽も、外来文化が既存の文化と競争したり共存する中で生まれた。韓国のポピュラー音楽は、大きく三つの音楽の影響を受けたといえる。韓国の伝統音楽、西洋の音楽、そして日本の音楽だ。この三つの関係は複雑に絡み合っていて単純ではないが、相対的にどの音楽の影響を大きく受けたかによって、初期の韓国のポピュラー音楽はそれぞれ異なるジャンルへと発展していった。

韓国のポピュラー音楽は「ジャズソング、漫謡(コミックソング)、新民謡、流行歌(トロット)」の四つのジャンルに分けられる。最初から明確な区分があったわけではないが、ポピュラー音楽が本格的に登場した1930年頃から、時おり歌のタイトルの上にそれぞれのジャンルを表示することもあった。

その中で、まずジャズソングは今の概念と大きく異なる。当時は、アメリカのジャズだけでなく、西洋のポピュラー音楽の影響によって生まれたポピュラー音楽やラテン音楽などを全てジャズソングと呼んでいた。それまで韓国の人たちは、賛美歌や軍楽隊で西洋の音楽と楽器に接していた。その後1920年代の中頃から西洋の音楽の影響力がいっそう強くなり、ジャズブームが起こった。

例えば、1926年に朝鮮サッカー団を率いて上海を訪れた全羅道の大地主の息子ペク・ミョンゴン(白命坤)は、ジャズの楽器と楽譜を買って帰り「コリアン・ジャズバンド」を結成した。えてして享楽的なジャズソングは、1920年代末の都会の男女の代名詞だった京城(現在のソウル)のモダンガールとモダンボーイの間で大流行した。そのような風潮は、映画やレコードの影響が大きかった。しかし、必ずしも好意的に見られていたわけではない。当時ある知識人は、ジャズブームについて「モダンガールとモダンボーイが格好つけて尻を振って踊る」と批判した。しかし、レコード会社に所属する演奏者の中には、西洋のジャズミュージシャンをモデルに、正統なジャズ音楽に取り組む者も少なくなかった。

1920年代末のジャズブームによって、1930年代からジャズソングと呼ばれるポピュラー音楽が本格的に登場した。最初はアメリカのジャズ・コーラスグループ、ザ・ミルス・ブラザーズの『ダイナ』など西洋や日本で流行った歌のカバーが多かった。1930年代半ば以降は『喫茶店の青い夢』のようなオリジナル曲も登場した。

もし韓国が日本の支配を受けていなかったなら、文化や音楽も大きく変わっていただろう。だからといって、日本のポピュラー音楽の影響だけで、韓国の近代ポピュラー音楽を説明できるわけではない。文化というのは非常に複雑で流動的であるからだ。

京城放送局(JODK)で初めて放送されたコリアン・ジャズバンドの演奏(1929年夏)。1920 年代、京城(現在のソウル)を中心にジャズブームが起こり、同バンドは 1925年に結成された。 1926年2月には朝鮮日報の後援で結成公演が行われている。

社会風刺
漫謡(コミックソング)は、音楽の形式的な分類よりも、歌詞が重要だ。漫謡という言葉は、主に二人で面白い話をする漫談から生まれた。漫謡は漫談と同じく、滑稽な歌詞で構成されている。漫謡の笑いは、ユーモアなものと風刺的なものに分けられる。前者が同情の笑いだとすれば、後者は批判の笑いだ。また、前者が温かい笑いだとすれば、後者は冷たい笑いだ。

1950年代から1970年代まで長く流行した『ソウル見物』という歌の原曲は、1936年にカン・ホンシク(姜弘植)が歌った『愉快な田舎親父』だ。この歌は、初めて汽車に乗ってソウルに行った田舎の親父が、様々な出来事に出くわす様子をユーモアで描いている。歌詞を聞いていると思わず笑ってしまうが、一方では田舎の親父の失敗に同情してしまう。近代という海で漂流している自分の姿と重なるからだ。また、1939年にコロンビアレコードから発売された『でたらめな大学生』は、恋愛とビリヤードに夢中になって学校にも行かない隣の家の大学生を風刺した歌だ。単に隣の大学生だけでなく、そんな学生全てを風刺したものといえる。特に、この歌は社会風刺によって笑いと教訓を与えたという点に意味がある。政治的な抑圧や検閲が厳しい時ほど風刺技法が発達することを考えると、日本の抑圧や収奪に耐えていた人たちの現実がうかがえる歌といえよう。

新民謡は、名前の通り新しい民謡という意味で、自生的なポピュラー音楽といえる。従来からある音楽や民謡の一部を借りて、伝統的な要素を継承しようとした。リフレイン、伝統的な楽器の伴奏、伝統的な唱法などを駆使し、様々な方法で既存の音楽の要素を盛り込んだ。特に、ナ・ウンギュ(羅雲奎)監督が1926年に撮った映画『アリラン』の主題歌が当時、大流行した。この歌から、初期の新民謡の様相をうかがい知ることができる。

1907年にコロンビアレコードが発売した初の商業用レコードのうち、ハン・インオ(韓寅五)の京畿雑歌(俗謡)を収録した『Corean Song』。片面だけ録音されている。© 東国大学校・韓国レコードアーカイブ研究所

1935年にオーケー(Okeh)レコードが発売したイ・ナニョンの『木浦の涙』は、日本統治下の韓国人を慰め、今でも広く愛されている。

オーケー(Okeh)レコード専属歌手3人による『娘合唱』(1940年)。 オーケーレコードは1932 年、韓国人によって設立された最初のレコード会社で、多くの人気歌手を生んだ。 © 韓国コンテンツ振興院

つらい人生の慰め
1930年代の半ばになると、妓生から転身したポピュラー歌手が大挙して登場する。妓生学校や券番(妓生組合)で踊りと歌の教育を受けた妓生は、「準備が整った芸能人」だったともいえる。特に、伝統的な唱法を駆使した元妓生の歌手は、新民謡で頭角を現した。当時のポピュラー音楽の聞き手は、他のジャンルに比べて相対的に「朝鮮の匂い」がする新民謡にとりわけ熱狂した。その影響で、1933年にレコードの録音に参加した妓生ワン・スボクは、教養雑誌『三千里』を発行する三千里社による「レコード歌手人気投票」で女性歌手部門1位になった(1935年)。

現在トロットと呼ばれる歌も、この時期に登場した。当時は単に流行歌と呼ばれていた。これらの歌は、ほとんどが日本のポピュラー音楽の影響を受けたため、2拍子、短調、5音階が特徴だ。しかし、そうした影響を与えた日本のポピュラー音楽も、実際には日本固有のものとはいえない。日本は早くから、音楽をはじめ西洋の文化を積極的に受け入れてきた。その過程で西洋と日本の音楽が融合して「演歌」が生まれた。当時は日本でも、演歌ではなく流行歌と呼ばれていた。その流行歌が演歌と呼ばれるようになり、伝統的なポピュラー音楽として定着して人気を得たのは、1960年代のことだ。日本が国のアイデンティティーを確立する過程で、演歌が伝統的な音楽として位置付けられるようになったのだ。つまり、日本の演歌は「作られた伝統」といえる。

韓国でトロットは、日本の影響を受けたため、長く軽視されてきた。それにもかかわらず、トロットは多くの人から愛され、今まで強い生命力で生き残ってきた。韓国でトロットがポピュラー音楽のジャンルになったのは、1950年代以降と推定される。日本統治時代に生まれたトロットが、当時だけでなく今でも歌い続けられているのは、トロットにつらい人生と情緒が反映されているからだ。故郷を離れて暮らすつらさを描いた『他郷暮らし』、日本への消極的な抵抗を表現した『木浦の涙』は、韓国人の琴線に触れる代表的な流行歌だった。泣きたい気持ちを代弁する存在が、当時の人たちにとって大きな慰めになったのだろう。

自発的・主体的でなかった韓国の近代は、絶望の別名でもある。しかし、絶望の中でも生活や文化は続き、現代のポピュラー音楽の基盤ともいえる歌になった。韓国のポピュラー音楽は、近代の暗闇の中、つらい心を慰めることで咲いた美しい花なのだ。

チャン・ユジョン 張攸汀、檀国大学校教養学部教授
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