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2017 AUTUMN

特集

韓国の台所特集 3その台所では、常に何かが湯気を立てている

台所は料理を作ったり、食べたりする空間だが、時にはその用途をはるかに超える。ある者にとっては台所がアトリエになり、思い出の詰まった空間にもなり、青春の足跡が刻まれたりもする。そのため、全ての台所では吸い物であれ、ご飯であれ、恋しさであれ、常に何かが湯気を立てている。

家には、そこに住む人に関する多くの情報が収められている。特に、住居と食事という二つの機能が混在する台所は、そこに住む人のライフスタイルや人生観がうかがえる直接的で実在的な空間だ。このような観点から、台所をテーマにする場合、最も身近なアプローチの方法は「変化」だろう。もちろん、台所が変化の主体になるわけではない。それでも、台所はゆっくりとだが、どのような方式であれ変化を反映してきた。
時代や環境の変化によって、あるいは火をコントロールする方法によって、台所の役割と形がどのように変わってきたのかを振り返ってみることは、過去、現在、未来の生活様式と文化を比較する上で、かなり有効な方法だといえる。
しかし、その過程で手にした啓蒙的な知識を偉そうに語るのは、それほど目新しいことではない。ほとんどの場合、愉快な質問や好奇心は、そうした近代的な常識の向こう側にあるのだ。それならば、女性の密かな空間だった台所を男たちはどのように使い、記憶していたのだろうか。

台所は伝統的に女性の空間だったが、最近では台所に立って料理を楽しむ男性が増えている。

「見慣れない」台所
芸術家がある空間をひどく陰鬱に描写したり、これ見よがしに明るく表現したからといって、そのまま受け止めてはいけない。多くの場合、芸術家は矛盾を秘めており、対象への感情を最大化したり曖昧にする上で、優れた才能を持っている。ひょっとすると、そこから読み取れる葛藤や対立さえ、実際には存在しなかったのかもしれない。それは、現実の生活空間を内的な空間に移す過程で生じる副作用なのだ。この独特な関係は、実証主義よりも大きな説得力をもって、人と空間について共感させ魅了させ理解させる。
『イメージの裏切り』で知られるルネ・マグリットは、台所兼食堂で絵を描き、食事をしたり来客に会うという日常生活も、そこで行った。彼は、アトリエが欲しいとは全く思わなかった。アトリエらしいアトリエは、髭を伸ばしてベレー帽をかぶったパリの画家のように、ただの見栄に過ぎないと考えて嫌っていたのだ。狭いアパートの台所兼食堂で、スーツを着て絵を描いていると、食卓にぶつかったり、フライパンで手に火傷をしたり、あるいは出入りする来客のためにドアの取っ手に腕が当たって、キャンバスのひょんなところに筆先が当たりもした。食事の時間になると毎回、創作を中断してイーゼル、パレット、筆などの画材を片付けた。
そのためか、彼の作品には台所や食卓で目にする物が、頻繁に登場する。『これはチーズである』に出てくるガラス箱の中のひとかけらのチーズ。『黄金伝説』で飛行機のように列をなして空を飛ぶバゲットなど…。彼は、実物をそのまま再現したこれらの平凡な対象をユニークな方法で配置することで、慣れ親しんだ物を見慣れない物に作り変えた。ベルギーでシュルレアリスム(超現実主義)を主導した詩人のポール・ヌージェは、次のように述べている。
「マグリットの絵を見れば、世界が変わる。平凡な物など、もう存在しない」。
マグリットの台所のある家は、今は美術館になっており、ブリュッセル郊外のジェットという街に位置している。アンドレ・ブルトンとの不和によって、シュルレアリスムのグループから外されたマグリットが、1930年にパリから戻って住み始めた場所だ。マグリット夫婦は、ここで24年間過ごした。

芸術家がある空間をひどく陰鬱に描写したり、これ見よがしに明るく表現したからといって、そのまま受け止めてはいけない。多くの場合、芸術家は矛盾を秘めており、対象への感情を最大化したり曖昧にする上で、優れた才能を持っている。ひょっとすると、そこから読み取れる葛藤や対立さえ、実際には存在しなかったのかもしれない。

「吸い物が湯気を立てる」台所
マグリットが台所の片隅で『これはチーズである』を完成させた1936年、韓国ではペク・ソク(白石)という20代の若い詩人が、初の詩集『鹿』を出した。近代化の中で生まれ育ったペク・ソクは、五山学校を経て、日本の青山学院大学で英文学を学んだ後、朝鮮日報社に就職し『女性』という雑誌の編集をな文学」とは明らかに異なる。
ペク・ソクが最も注目した故郷の情趣は、食べ物だ。33編の詩からなる『鹿』に登場する食べ物は、46にも上る。普通の韓国人にとって、その食べ物の名前はなじみがなく、外国人にでもなったようだ。食べ物を生み出す台所の風景も、ペク・ソクの詩によく登場する。その台所の釜では、常に何かが湯気を立てている。

「小姑や相嫁のひしめく賑やかな台所の脇戸の隙間から、障子の隙間から、ムイジンゲ汁を煮る、おいしそうな匂いが漂うまで眠る」(『狐谷の一族』より)
「明日のような祭日の前夜は、台所に明々と灯りがともり、釜の蓋はカタカタと揺れ、香ばしい匂いと共にコムタン(牛のスープ)が煮込まれ」(『古夜』より)
「暗い台所では、一人暮らしの老いた舅がワカメ汁を作る/そのマウム(心)*の離れ家でも、産後の産婦のために汁物をこしらえる」(『寂境』より)
[*文学評論家イ・スンウォン(李崇源)氏によると、マウム(心)はマウル(村)の誤記。離れ家は、産婦の実家を指している]

ペク・ソク(白石)の詩は、台所の風景がたびたび描写される。その台所の釜では、常にスープがおいしそうな匂いを漂わせている。台所のかまどで何かが湯気を立てているということは、料理が作られていることに加え、部屋が暖められていることも意味している。

韓国の伝統的な台所は、多くの場合、奥の間の壁につながっており、その壁面に造られたかまどには、3~4の釜をかけることができる。その火でご飯を炊いて、吸い物も作る。その熱が奥の間の床暖房を通って煙突から出ていくため、部屋も暖められる。そのため、台所のかまどで何かが湯気を立てているという描写は、暖かい部屋と湯気の上がる料理があることを意味し、一つの家庭がうまく機能しているという穏やかな雰囲気を象徴している。寒い冬、寝ぼけ眼で匂いを嗅ぐだけでもよだれが出そうなムイジンゲ汁は、大根とアミの塩辛で作る平安北道の郷土料理だ。大根のさっぱりした味にアミの塩辛のコクが加わり、淡泊で香ばしいという。
ペク・ソクは、モダンボーイにふさわしい服装で、20世紀の日本統治時代の京城(現ソウル)を闊歩していた。それでも彼の味覚、嗅覚、情緒は「幼い巫女が刃物に乗って」、「ヤマナシの実を食べて壊したお腹、サンザシの実を食べれば治る」と信じる人々が住んでいた19世紀朝鮮の北方の村の伝統に属していた。おそらく彼の不幸は、近代と伝統、亡国と植民の間で生じたのだろう。親に強いられた5回の結婚と幾多の転職、そして根なし草のような生活によって『鹿』以降の彼の詩の世界は、故郷の温かい記憶ではなく、悔いと寂しさで埋められた。
ウィリアム・バトラー・イェイツの伝記を書いたR.F.フォスターは、次のナポレオンの言葉が、イェイツに完全に当てはまると述べている。「一人の人間を理解するためには、その人が二十歳だった頃の世界を理解しなければならない」。イェイツが幼い頃に経験したアイデンティティーの混乱、そして祖国であるアイランドの神話と伝説への傾倒について、英文学を学んだペク・ソクは知っていただろう。政治的・社会的な抑圧と己の性質をうまく調和させたイェイツとは異なり、ペク・ソクはそうすることができなかった。終戦後、南北に分断された祖国のうち、どちらかを選ばざるを得なかった彼は、北朝鮮にある故郷の定州に戻り、個性あふれる文学的な試みはそこで途絶えてしまった。そのため韓国の文学史は、韓国人の原初的な想像の世界をそれ以上堪能することができず、「悲嘆と諦念の詩人」として彼の晩年を記録するしかなかった。

慶尚南道梁山市の通度寺の供養間(台所)で、汁物ができるのを待つ僧侶。筆者も一時、江原道五台山の上院寺の台所で、寺の人のために吸い物を作り、後片付けをしていた。

「がらんとした」台所
ソウルの舍堂洞には「ソウルの未来遺産」に指定された詩人ソ・ジョンジュ(徐廷柱)の家がある。彼は、その家で生涯を終えるまでの30年間、妻と過ごした。「ミダン(末堂)」というソ・ジョンジュの雅号は「まだ完成していない家」、つまり「まだまだ足りない者」という意味だ。しかし、そのような謙虚な名とは異なり、多くの韓国人は、彼こそ韓国近代文学における最高の詩人だと称えている。
その家の台所の片隅には、1978年に納めた防犯費の領収書が置かれている。そして、白いからむしの上着を着た夫婦が、夏のある日、まぶしい日差しに顔をしかめ、庭の石垣に並んで座っている1枚の写真が飾られている。詩人の妻パン・オクスン(方玉淑)氏の人柄を知るために、彼女が若い頃、ある新聞記事に載せたケジャン(たれに漬けたカニ料理)の作り方を紹介しよう。
「チャムケジャンは、畦や川辺にいるチャムケ(チュウゴクモクズガニ)で作りますが、秋風が吹いて稲が実り始める頃になると身が詰まって、内臓が黒くなるので、さらにおいしくなります」。
ミダンは生涯、数百編の詩を残したが、台所への思いを詩に表すことはなかった。「浮気をしないようにと/妻が毎日、早朝から甕置き台まで汲んでくる/三千杯の冷水」を見て「私が先に天に登るその日に/私の息は妻の空の器に入れようか」(『私の妻』より)と歌った彼としては、少し意外だ。
その物足りなさを満たしてくれるのが『詩論』という詩だ。

「海でアワビを採って売る済州の海女も/一番良いものは、あの人が来る日に採ってあげようと/海の岩についたままにしておく/詩のアワビも、一番良いものは、そのままにしておけ/全てを採って空しくなって、さまようのか/海にそのままに残しておいて、海を求めてこそ詩人であるものを…」。

もう誰も帰ることのない、がらんとした家の1階にある台所には、ミダンが最後まで飲んでいたといわれるビールの缶が一つ置かれている。妻と死別した85歳の老詩人は、他の食べ物は一切とらず、台所のテーブルに一人座って酒を飲み続けて、三カ月足らずで亡くなったという。この話をしてくれたのは私の妻だ。妻は詩人のその気持ちがよく分かるようだ。

「気恥ずかしい」台所
家父長制の伝統が残っていた20世紀の韓国において、台所への男の考えを聞くのは珍しいことだった。それでも、台所に関する思い出が全くない人は、珍しいだろう。幼い頃、私は退屈だったりお腹が空いたりすると、よく台所の扉の前に立って、暗い台所をぐるりと見回した。その時、目に留まるのは、中身を隠している唯一の家具である戸棚だ。その扉を開くと、ゴマ油などよく分からない液体がこぼれて染みついた跡から、すっぱくて塩っぽくて生臭い匂いが、入り混じって鼻をついた。私はキョロキョロしながら、蜂蜜の壺から一匙すくって口の中に放り込んだり、戸棚の隅にある母の財布に手をつけたりもした。
小学校の高学年になると、台所は素朴な労働の空間になった。ある日の夕方、かまどの焚き口の前にしゃがみこんで火を見つめていると、同じクラスの隣の席の女の子が突然現れ、台所の扉にもたれて私を見下ろしていた。1歳年下の妹と急に仲良くなったようだった。私は恥ずかしくて顔さえ上げられず、煙を吸い込みながら台所の床にしゃがみこんで、微動だにしなかった。昼ご飯の時間に青いヤマナシの実をくれたことに、ありがとうの一言も言えなかった。
もう少し大きくなると、その低くて暗く湿った台所の床で、火を焚く手を止めて、ラジオから流れる曲の歌詞を必死に書き写したものだ。そう言えば、二十歳の冬に出家を決めて、やっとの思いで訪れた五台山の上院寺で、老僧が凍った麺料理をかき混ぜながら渡してくれたことがある。それを慌てて食べたのも、僧侶ときこりの小屋として使われていた草堂の台所の縁側だった。私は、その台所でしばらくの間、火を焚き、寺の人のために吸い物を作り、後片付けの合間を縫って、仏教の経典の代わりにキム・スヨン(金洙暎)の詩を読んでいた。

「部屋二つと居間一つときれいな台所と愛しい妻を抱えて/見た目だけでも他の人と同じように生きていくことが、なぜこんなにも気恥ずかしいのだろうか」(『雲の歩哨』より)

このように漏らしたのは、真っすぐで鋭い男、キム・スヨン。韓国文学史において彼ほど自分の人生を完全にむき出し、自らを観察し、率直に記録した詩人が他にいるだろうか。これが私の出会った二十歳の頃の世界だ。

イ・チャンギ李昌起、詩人、文学評論家
安洪範 , 河志權写真

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