国立中央博物館の「大高麗、その燦爛たる挑戦(GORYEO: The Glory of Korea)」は、5世紀にわたり朝鮮半島を支配していた中世の統一国家高麗(918年~1392年)の美術を総合的に振返ってみる最初の大規模な展示だ。来年3月3日まで続くこの特別展は、海外4カ国11の機関をはじめ、国内外45の機関の主要コレクション450余点を展示している。
『高麗太祖王健像』10~11世紀、青銅、高さ138.3cm韓国の歴史上現存する唯一の王の肖像彫刻で、開城歴史遺跡地区内の顯陵から1992年に出土した。絹の衣装は腐食し、裸身像と玉で作られた銙帯だけが発見された。© 平壌朝鮮中央歴史博物館
『希朗大師座像』10世紀、木造乾漆、高さ82cm海印寺の祖師だった希朗大師の真影像は、国内唯一の僧侶の真影彫刻だ。寺の造成・奉安以後、門外不出のこの彫刻が、一般公開されるのは初めてのことだ。宝物第999号に指定されている。© 海印寺聖宝博物館
高麗は最初から多様性を尊重していた。周辺国と多元的な外交関係を結び、外国人を宰相として登用するほど開放的で包容力に富み、そして統合精神を実践していた。韓国の英語の名称である「コリア」が「高麗人の住む国」「高麗人の地」という意味に由来するように高麗時代は韓国人のアイデンティティが育成された時代だった。
しかし、高麗の500年の歴史は多くのことがベールに包まれている。今日、相当数の韓国人が高麗の具体的な地名や遺跡について知らない。その理由は日本植民地時代、朝鮮戦争、南北分断という不幸な近現代史と関連がある。高麗のイメージが漠然としているのは、首都開京(現在の開城)をはじめ政治、宗教、文化、通商の中心地がほとんど北朝鮮に位置しており、韓国からはアクセスできず、そのため多くの部分が人々の記憶から消え去ってしまったからだ。
満月台は、建国の翌年919年に太祖王建が松岳山の南に王宮を創建して以来、1361年紅巾族の侵入により焼失するまで高麗の王たちの居城となっていた。1918年に日本が朝鮮古跡調査事業の一環として撮影した写真からも分かるように満月台は廃墟となっている。ちょうど写真の撮られたこの年は高麗建国1000年になる時期だったが、日本植民地時代だったために誰もこれを記念する人はいなかった。1000年を記念する機会を失った私たちに訪れた1100周年は、それでより深い意味があると言える。
高麗建国1100周年を記念して、その歴史にスポットを当てるために今年は全国的に様々な展示と学術行事が開催されている。12月4日から国立中央博物館で始まる特別展はアメリカ、英国、イタリア、日本を含む国内外に散らばっている主要高麗遺物の相当数が一同に集まるという点で、催事の中でも白眉であると言える。
高麗は前王朝が成し遂げた文化的な伝統を排斥せずに多元的な態度で融合し、 周辺国と活発に交流しながら美しく創意的な文化を花咲かせた。
王と師匠の彫像
今回の特別展で期待されるのは高麗太祖王建と希朗大師の「出会い」だ。「北朝鮮から来た王」と「韓国にいた王の師匠」が11世紀ぶりにソウルで出会えることを願う。
まず『青銅太祖王建像』は、開城にある王建とその第1妃神恵王后の墓である顯陵から出土したもので、韓国の歴史上、唯一現存する王の肖像彫刻だ。高さが138.3cmのこの青銅彫像は平壌朝鮮中央歴史博物館に所蔵されている。国家の繁栄を祈願して作られたこの彫刻は、寺院に奉安され祭礼の対象とされてきた。埋納当時には絹の服をまとい腰には玉で作られた銙帯を着用していたが、1992年に発掘された時には服は腐食し、青銅像と銙帯だけが出土した。顯陵はユネスコ世界遺産である開城歴史遺跡地区の一部だ。
『大方広仏華厳経板 寿昌年刊板』1098年、木製、24×69.6cm「高麗大藏經」とともに高麗時代の板刻技術を知ることのできる「高麗木版」は、国家機関で製作された「高麗大藏經」とは違い、寺刹や地方官庁で作られたものだ。仏教の経典だけではなく高僧の著述、詩文集なども彫られた。現在、海印寺に保管されている高麗木版は合計54種類2835板で、その中でも『 大方広仏華厳経板 寿昌年刊板 』は刊行記録の残っている高麗木版中、最も古いものでその価値も高く、高麗時代の長い大蔵経の歴史を示している。ⓒ ハ・ジグォン(河志権)
一方、韓国の海印寺に所蔵されている希朗大師の「乾漆木造像」もまた930年以前に作られたものと言われており、僧侶の真影肖像彫刻としては国内唯一のものだ。僧侶の似姿として作られ、実在感のあるこの彫刻像は、海印寺に奉安された後は門外不出の品で、一般公開されるのは今回がはじめてだ。この二点の貴重な遺物が格別な理由は二人の特別な関係にある。希朗大師は王建の精神的支柱として後三国時代に、政治的に苦しい立場に追い込まれた王建を助け、高麗建国後には王の師匠となった人物だ。
高麗の政治的象徴である「太祖王建像」と精神的な価値を象徴する「希朗大師像」は、作られた当時からこれまでに一度も向かい合ったことがない。国立中央博物館では展示開催後でも「太祖王建像」が搬入したら展示できるよう場所を確保してある。
金属活字と大蔵経板
『地蔵菩薩図』14世紀、絹に彩色、104.3×55.6cm地獄で苦しむ衆生を救う地蔵菩薩を描いた仏画で、上段に本尊仏を大きく描き、下段にその他の人物を配置する高麗仏画の一般的な構図に倣っている。宝物第784号ⓒ サムスン美術館リウム
今回の展示でもう一つ注目される点は、寺の門から出たことのない高麗大蔵経が、今回公開されることだ。経板が保管されている海印寺を訪問しても実際に見ることはできない貴重な品だ。
高麗は世界初の金属活字を生み出したほどに素晴らしい出版の歴史を誇っている。中世ヨーロッパで修道士たちの日課に祈祷と聖書を書き写す仕事が含まれていたように、高麗の僧侶たちも経典をその手で書き写す写経は非常に重要な仕事だった。この古くからある伝統的筆写から印刷への転換は、世界史のパラダイムを変える事件だった。東西を通じて印刷文化は修道院と寺院で聖書と経典を媒介として花開いた。グーテンベルクによる西洋初の印刷聖書が時代を開いた革命的象徴のアイコンとなったように、大蔵経は仏教聖典の総合体である同時に、当時のアジアの知恵と知識を集大成した画期的な出版物だった。
971年に宋の太祖が始めてから983年に完成した開寶蔵は、宋の皇室の伝統性を確認する記念事業だったが、残念なことに焼失し現存する本は非常に少ない。それに対して高麗は計三回にわたり国家的な事業として大蔵経を刊行した。『初雕大蔵経』は開寶蔵に続いて世界の歴史上二番目に版刻された大蔵経で、1011年、契丹の侵入で開京が陥落するという国家的な危機の中で行われた事業だった。以降、高麗の大蔵経の刊行に刺激を受けて作られたのが『契丹大蔵経』だ。
初雕大蔵経が1232年蒙古の侵入で焼失してしまった後、高麗は既存の宋本、初雕本、契丹本の内容を合わせた『再雕大蔵経』を刊行した。このときに刊行された大蔵経板は16万枚を両面に板刻したので8万枚に達するとして『八万大蔵経』と呼ばれている。海印寺に700年間保存されてきた八万大蔵経板は、東アジア仏教文献の集大成として現存する最も完全な形の経板だ。
中世東アジアで大蔵経の威力は今の核兵器競争に負けないようなものだったと言える。国内的にも大蔵経の刊行は国家の総力をあげての大規模な事業であり、板版で大量に印刷し全国の寺院に奉安することで王室の権威を高め国民を統合することができた。また、近隣諸国に印刷本を贈ることで文化的な優越性を誇示し、外交的に主導権を握ることができた。大蔵経を要請しこれを下賜される過程の記録、木板を得ようと努力した記録を見ると国際情勢の中で大蔵経を通じた高麗の影響力が窺われる。
包容と融合
3カ月間にわたり開催される今回の展示は、大きく3つのテーマで構成されている。第1部は『国際都市開京と王室の美術品』で、活発だった海上交流と様々な物産が展示される。国際都市だった首都開京には多くの外国人が行き来していた。高麗の第17代王仁宗が在位していた1123年に宋の使節団一行が到着した。徽宗の送った200人あまりの使節を率いてきた使臣徐兢もその中の一人だった。徐兢は高麗で過ごした1カ月間を『宣和奉使高麗図経』という本にしている。彼は開京で見聞きした文物を仔細に記録し、直接絵を描き添え帰国後皇帝に献上したが、数年後北宋が金により滅亡したため、その絵は戦乱の中で消えてしまい文章だけが伝わっている。観賞客はこの展示会において、今や行くことのできない高麗の中心であった、開京にタイムトリップすることができるだろう。
第2部は、王室とともに美術品の主な消費地であった「寺院の美術」で構成されている。仏教は国家の宗教であり、思想であり、暮らしと精神の中心であり、生活それ自体だった。高麗が成し遂げた文化的な成功は仏教文化を基盤に頂点に至った。高麗以前と以後のどんな王朝も高麗ほどに仏教の精神と価値を理解し花咲かせることはできなかった。
最後の第3部は「高麗の粋、高麗の美術」というテーマだ。高麗は独自の国家観をもとに中国本土の宋だけでなく、北方の契丹族が建国した遼や女真族の金とも200年以上にわたり国交を維持し交流した。一方で高麗の後半期は世界史上類のない大帝国を建設した元が支配する時代だった。このように高麗の周辺情勢は常に大小の戦争が続く戦乱の時代だった。しかし逆説的に言えば、戦争の長さは文化が行きかう交流の長さでもあった。従って激変のこの時期に、高麗の素晴らしい工芸品は技術の収用と交流、異質の要素との融合を繰り返しながら活発に流動したのだ。
『銀製金鍍金注子と承盤』12世紀、銀に鍍金、注子:高さ34.3cm 底の直径9.5cm、承盤:高さ16.8cm、口の直径18.8cm、底の直径 14.5cm華やかな蓮花模様で蓋の上に鳳凰を施した注子と承盤で、高麗時代の金属工芸の精髄と言える。青磁と金属工芸の形態および装飾が互いに合い通じるところがあることを示す名品だ。 ⓒ ボストン美術館
青磁透刻七宝文香炉』12世紀、高さ15.3cm、台座の直径11.5cm象嵌技術が開発される以前の高麗青磁の代表的な名品の一つだ。香りが抜け出る蓋、香を焚く胴部、それを支える台座の三つの部分から成っている。多様な技法が使われており、装飾的な要素が多いものの全体として造形的な調和がよく取れている。国宝第95号 ⓒ 国立中央博物館
不変的価値の再発見
歴史書はこのような交流に関して短編的に記録しているが、現在に残る美術品は高麗が中国、日本の歴代王朝と活発に交流してきた様子を如実に示している。従って今回の特別展は、美術品を通じて北東アジア国家との関係の中で創出された高麗の文化的な成熟さに照明を当てており、そのような点でも興味深い。
高麗は前王朝が成し遂げた文化的伝統を排斥せずに、多元的な態度で融合し、周辺諸国と活発に交流しながら創意的な文化を美しく花咲かせた。高麗人は人間の情緒と感情を把握し、それを色や材料、技術的な成功を通じて素晴らしい美術へと具現化した。よって時には強く、時には限りなく優雅で繊細に、見る者を圧倒する。観賞客は今回の展示で、忘却の高麗と、時代が代わっても変わらない普遍的な価値に出会うだろう。