公演を行う場の多様化、さまざまな地域に根ざした演劇祭、演劇人の幅広い国際交流によって、演劇界は日増しに活気を帯びている。その中心には、韓国的な演劇を作るという当為性から脱し、同時代性について考える新たな世代の演出家がいる。
コ・ソンウン脚色・演出の『趙氏孤児、復讐の種』(2015)。中国の古典悲劇を歌劇として再構成した作品
2000年代の韓国演劇はひたすら躍動的だ。若い世代は幅広い創作に挑み続け、公演の制作やプラットホームの規模と数も大きく成長している。
躍動性の基盤
ソウルの真ん中にある大学路は、演劇だけでなくミュージカル、舞踊、エンターテイメントショーなどが見られる中心地となって久しい。また、年中さまざまな演劇祭が、大学路だけでなくソウルの各地や地方のあちらこちらで開かれている。中・大型の劇場がソウルに集中する一方で、規模や観客の反応において盛況を見せる演劇祭は、地域に根ざしている。密陽夏公演芸術祭、春川マイム祭り、居昌国際演劇祭などは、どれもソウルから遠く離れた地域で成功した演劇祭だ。
公共の劇場の役割も変化している。以前の公共劇場は、発表の場が足りない民間の劇団に、少しでも安くて良い環境を提供するという役割にとどまっていた。しかし2000年代に入り、自ら制作を手掛ける公共劇場が現れ始めた。LGアートセンターや斗山アートセンターなど、民間企業が文化財団を設立して運営する劇場だけでなく、国立劇団、明洞芸術劇場、南山芸術センターのように公共の基金によって運営される劇場も、自ら制作した演劇を年中プログラムとして運営している。
劇場を飛び出して路上や日常的な空間で行うサイト・スペシフィックな公演が増えたのも特徴といえる。一方、新たな公演空間への関心が高まり、さまざまな空間が公演の場として注目されている。ソウルでいうなら漢南洞「テイクアウト・ドローイング」のように展示と公演が可能な複合文化空間、アトリエでありながら公演会場としても開放されている空間、永登浦の工場地帯にある工場を改造した「インディーアートホールGONG」のような公演会場、古い住宅地にある使われていない建物を改造した文化空間などだ。そうした公演会場では、若い演劇人が新たな試みを続けている。
幅広い国際交流によって、公演の幅も広がっている。2015年の秋に開館した光州国立アジア文化殿堂内にあるアジア芸術劇場は、ヨーロッパやアジアで活発に活動している新進・中堅アーティストによる、アジアをテーマにした新作を数多く紹介している。韓国演劇の海外進出も次第に増え、アジアやヨーロッパだけでなく南米などでも公演されている。国際協力の幅も目に見えて広くなり、海外の演出家が韓国の役者とともに作品を作ったり、韓国の演出家が海外で公演を担当するなど、国内外の劇団によるコラボレーションも活発になっている。
「私は誰」から「今ここ」へ
そのような躍動性の中で注目されている韓国演劇の新たな主役、3人の演出家を見てみたい。そのためには、まず少し話を戻してみよう。
アジアの他の国々のように、韓国でも近代劇は西洋劇の導入から始まった。そのため、多くの演出家は自分の「演劇アイデンティティ」について思い悩み、西欧から入ってきた新たな演劇文化としての近代劇と韓国の伝統との融合に注目してきた。キム・ジョンオク(金正鈺)、ホ・ギュ(許圭)、ソン・ジンチェク(孫桭策)、オ・テソク(呉泰錫)、イ・ユンテク(李潤沢)など、20世紀における韓国現代演劇の巨匠の主な作品は、伝統文化を土台にして韓国演劇のアイデンティティを模索するところから始まっている。例えば、ギリシアの悲劇やシェークスピアなど西欧の古典を韓国の伝統演劇の言語を使って再解釈・演出した。あるいは、日常の空間に含まれる広く平らな広場よりも小さな空間、時には家の庭で行われた韓国の伝統儀礼や演戯・芸能を近代劇場の舞台に移して再構成した。そうした努力によって、クッ(巫俗儀式)、タルチュム(仮面舞)、民謡、パンソリ(唱劇)などの伝統公演芸術から現代的な演劇性を見出し、現代劇に結び付けて演劇言語を豊かにした。
だが、2000年代の作家や演出家は、彼らとは確実に違っている。アイデンティティへの悩みよりも、同時代性への悩みが先だ。自分たちの演劇言語が、ともすれば自分のものではないかもしれない、他人の言葉で演劇を作っているのではないかという疑念から解放された代わりに、もしかして今自分は、演劇において偽の家を建てて偽の人生について語っているのではないかと疑っているのだ。もちろん、彼らの先輩も考えなかったわけではない。20世紀の巨匠の弟子、後輩、仲間だったキム・ソクマン(金錫満)、イ・サンウ(李相宇)、キム・グァンリム(金光林)らは、アイデンティティへの悩みから、今ここで自分と一緒に生きている人々の話へと方向転換した最初の世代といえる。
シェークスピアの『マクベス』をコ・ソンウンが脚色した『キルべス』(2010)。派手なアクションの中で、悲劇的な緊張とギャグ的な転換が、爆発的な演劇的エネルギーを生み出している。
作家・演出家のパク・クンヒョン(朴根亨)は、同時代性を掲げて新たに登場した世代の最前線にいる。1999年に発表した『青春礼賛』は、彼の出世作であり代表作となっている。内容はタイトルと違い、一家離散を経験し、学校からも社会からも受け入れられない若者の話だ。大学路の一番小さな劇場のひとつ「恵化洞1番地」で初公演された際、100席足らずのがらんとしたブラックボックス形式の劇場には、客席となる2段の長いスツール以外には舞台装置がなかった。まさに貧しい演劇だ。そのがらんとした舞台に布団を敷き、焼酒と海苔だけが載せられた小さなテーブルを置けば、若者と父親が住む部屋になり、広告のポスターを貼れば古びた居酒屋になる。彼は「自分たちの暮らしとは違うのに、舞台に大きな家を建てるのは意味がない」と言い、豊かな今の時代において最も虐げられている者の話を包み隠さず繰り広げる。時には演劇的な省略と歪曲、そして誇張された遊びのような展開が顕著に見られる。しかし、そういった歪曲と誇張によって、忘れてしまっている今の時代の様子が、超写実主義的な再現のように突き刺さってくる。
パク・クンヒョンの作品は家族の話が多いが、人間の最後の砦ともいえる家族関係まで崩壊したり、不完全な状況に置かれて社会の枠外に追い込まれた者の話だ。そして、彼の演劇は、おかしな家族の話を超えて、韓国社会の随所に存在する傷と痛みを冷笑とヒューマニズムが張りつめた緊張の中で描いていく。
イ・ギョンソンとクリエイティブVaQiの『南山ドキュメンタ:演劇の練習-劇場編』(2014)のうち「幽霊散策」のワンシーン。「幽霊散策」は、公演前に観客と俳優が一緒に1時間の南山散策をし、そこで観客が俳優の意図されたパフォーマンスに出会うという内容
単純で流麗な感覚
セウォル号の沈没事件を扱う『ビフォー・アフター』(2015)。2014年に韓国社会に大きな衝撃を与えたこの事件を通じて、苦痛の感覚を深く見つめている。
「今ここ」を執拗に掘り下げたパク・クンヒョンに対して、コ・ソンウン(高宣雄)は演劇性に満ちている。コ・ソンウンも作家兼演出家だが、特に古典を自分のスタイルによって新しく仕立て直すことで、演劇の新たな言語と活気を見出している。
シェークスピアの『マクベス』を脚色した2010年の作品『キルべス』は、絶えず殺し殺される争いが続く、いつどこだか分からない場所が背景になっている。タイトルからして、原作のタイトル・ロールを韓国語の似た音でもじっている(刀を振り回して殺し合う乱闘劇を連想させる「マク・ペオッタ」という意味の俗語)。幕開けから刀と刀がぶつかり合う乱闘シーンで始まり、常に喊声と刀のぶつかる音がけたたましく響き、時には肉弾戦も起こる。だが、この演劇はシェークスピアの悲劇を、派手な殺陣で脚色しているわけではない。役者の体を流れる汗が手に取るように分かるほど、肉体を誇示する動きが強調されている。しかし、慣習的な劇的状況をもじった機関銃のような台詞回しは、それにも劣らず見事だ。コ・ソンウンの台詞は、日常的な会話や悲劇的な韻律を意図的に壊して、独特のリズムを作り出す。そのリズムに乗った言葉は、最高潮の緊張を虚しく崩してしまうギャグ的転換を生み、あるいは深刻な劇的状況とは対照的な意図された弛緩によって、悲劇的緊張を超えてヒステリックな状態に至りもする。緊張と弛緩が見事に交差するように動き、言葉が互いにリズムを取り合いながら展開されるコ・ソンウンの演劇を見ていると、凝縮された演劇的エネルギーを感じ、こちらが息切れしてしまいそうになる。
コ・ソンウンが2015年に発表した新作『趙氏孤児、復讐の種』は、彼のスタイルがユニークな感覚を超えて、人間が苦痛の真っ只中をどのように突き進むのかを描いている。紀君祥の中国古典戯曲『趙氏孤児』は、趙氏一族300人が皆殺しにされ、最後に残った産まれたばかりの「孤児」を生かすために多くの人が命を捧げ、成長した孤児が一族を皆殺しにした仇を討つという話だ。この悲惨な復讐劇で、コ・ソンウンは装置も動きも言葉もできるだけ取り払った。舞台装置は、舞台を円型に囲む赤い幕だけだ。事件と行為は、そのがらんとした舞台の上で、略号化された動きと小道具によって単純化される。『趙氏孤児、復讐の種』の登場人物は、誰もが孤児の復讐のために死を選ぶ。
コ・ソンウンは、そうした選択を道徳や正義のための悲壮として美化せず、復讐劇に対するニヒリズム的な疑念も見せない。その代わり、選択の前に立たされた人物が感じる人生への愛着と死への恐怖、それでも結局与えられた任務を受け入れる激しい葛藤と苦痛と決断を、極限までそぎ落とした単純で流麗な動きと言葉で描き出す。そうした悲劇的な事件に巻き込まれないようにと願うのも人間だが、生死をかけた選択の前でそれを選ぶのも人間なのだ。
パク・クンヒョン演出の『青春礼賛』。彼の出世作であり代表作でもあるこの作品は、1999年の初演以来、何度もキャストを変えながら再公演されている。内容はタイトルと違い、若者に将来の夢を与えられない社会の現実を描いている。
2000年代の作家や演出家は、彼らとは確実に違っている。アイデンティティへの悩みよりも、同時代性への悩みが先だ。自分たちの演劇言語が、ともすれば自分のものではないかもしれない、他人の言葉で演劇を作っているのではないかという疑念から解放された代わりに、もしかして今自分は、演劇において偽の家を建てて偽の人生について語っているのではないかと疑っているのだ。
感覚の倫理
イ・ギョンソン(李敬誠)は30歳を過ぎたばかりだが、演劇を作る独自の方法論で「若手」という修飾語が早くから付いて回らなかった。彼の演劇集団「クリエイティブVaQi」は、横断歩道や広場など日常的な空間で劇的な状況を引き起こすサイト・スペシフィックで注目を集めた。しかしイ・ギョンソンは、新しい創作方法や試みによって注目される若手演出家にとどまらない。
イ・ギョンソンとクリエイティブVaQiの『南山ドキュメンタ:演劇の練習-劇場編』(2014)は、公演された南山芸術センターが主人公だ。南山芸術センターは、1960年にドラマセンターとして開館して以来、韓国現代劇の主な公演会場だったが、いつしか忘れ去られ、最近になって制作劇場として再オープンした。この作品は、劇場の歴史、劇場のある南山に関するさまざまな公的・私的資料を調査して作られた。その過程で得た映像資料を編集して見せたり、この劇場のこけら落としだった『ハムレット』のワンシーンを時代考証せずに新たな手法で演出・公演する。そうかと思えば、仮想インタビューによって、この劇場と劇場のある南山を韓国現代史の事件現場へと呼び戻す。この作品はタイトルの通りドキュメンタリー演劇だと紹介されるが、イ・ギョンソンと劇団は、資料の編集にとどまらず提示と再現、事実と虚構などの境界を素早く切り替えながら、劇場という空間、演劇という創作の本質について「今ここ」という現実を喚起しながら、感覚的かつ知的に探求する。
パク・クンヒョン演出の『青春礼賛』。彼の出世作であり代表作でもあるこの作品は、1999年の初演以来、何度もキャストを変えながら再公演されている。内容はタイトルと違い、若者に将来の夢を与えられない社会の現実を描いている。
そうした創作方法は、最近の作品『ビフォー・アフター』(2015)でいっそう成熟した視線を現している。この作品は、韓国社会に大きな衝撃を与えたセウォル号の沈没事件を扱っているが、事件の再現や原因・影響を追跡することはない。逆に、この途方もない事件を通じて苦痛の感覚を問うのだ。現代社会は高度な技術社会でありながら、致命的な事件・事故、そして不可抗力の災害にさらされており、発達した技術によってそうした事件・事故はニュースで消費されるようになった。戦争が中継される時代には、災害も映像として消費される。『ビフォー・アフター』は、そのような苦痛の消費をやめさせようという試みだ。そのために、ある役者が経験した父の死を中心に、劇に参加する役者の苦痛のストーリーをナレーションや再現など多彩な方法で舞台化する。また、リアルタイムの映像で、舞台上の行動を他の視線で提示する。私たちは他人の苦痛にどれくらい共感できるのか、それを全身で感じることができるのか、そうした問いに対する静かで緻密な作品として大きく注目された。