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2016 SUMMER

新安の島々:原始の自然との対話特集 2「黒山」の発見

韓国人は、黒山島(フクサンド)を王朝時代の流刑地と認識している。しかし、実は恵まれた自然環境の中、国土の南西端の辺境で、北東アジア地域の国際海上交通の要衝として長年にわたり重要な役割を果たしてきた。

黒山島(フクサンド)の沙里港は、7兄弟岩と呼ばれる岩が自然の防波堤となっている穏やかな港。チョン・ヤクチョン(丁若銓)は、この海を研究室として『茲山魚譜』を残した。

「 東亜地中海号」と命名された質素な筏(いかだ)一艘が1997年6月15日、中国浙江省の海岸を発った。韓国・東国大学のユン・ミョンチョル(尹明喆)教授の主導で、韓国と中国の海洋学者が企画したものだ。この筏探険隊の目的は、古代の人たちが利用したと思われる「漂流航海」を実験することだった。陸地を離れた筏は、海流と南西風に乗って北東の方へ流れていった。航海中、台風に遭うこともあったが、17日後に到着したのは黒山島だった。

風と潮流の行き着くところ

朝鮮後期の文臣で日朝修好条規(江華島条約)に反対して黒山島に島流しされたチェ・イッキョン(崔益鉉、1833〜1906)は、流配の地で国を憂い、後進を指導した。その功績を称える遺墟碑が、黒山島浅村里に立っている。碑石の裏には、大韓帝国が悠久の歴史を持つ独立国であるという文が見える。チェ・イッキョンが絶壁に手ずから刻んだ内容だと伝えられている。

この漂流探険は、2つの固定観念を覆した。一つは、現代科学の力を使わず、自然の力だけでも大陸と朝鮮半島との交流が可能だったことを証明した。これにより「動力船も航海術も持たない古代人が海を渡れたのか」という現代人の懐疑的な見方は拭い去られた。もう一つは「大陸との交流は、危険な海路よりも安全な陸路によって行われたはずだ」という漠然とした大陸中心の思考を改めさせた。そして、韓国人の先祖「東夷族」が、朝鮮半島と大陸に囲まれた「東アジアの地中海」で中国・日本・南方と交易し、時には海で戦争もした海洋文化民族だったという主張に大きな説得力を与えた。

この漂流探検は、もう一度行われた。筏の軌跡は、10~14世紀に高麗人と宋人が利用した南路とほぼ一致した。フィリピン北部から北東に向かう黒潮の支流は、台湾を経て済州島まで北上し、二手に分かれる。そうして生まれた支流は、朝鮮半島の西の沿岸に沿って北上し、遼東半島と山東半島を回って南下し、杭州湾付近でまた北東へと流れを変えて朝鮮半島に進む。当時の人たちは、この海流を利用し、さらに晩春から初夏までは南西風、10月と11月には北東風になる季節風を待って、大陸と朝鮮半島を行き交いながら魚を捕って商売もしたのだ。

『宋史』の高麗伝には、この移動経路について次のように記録されている。

「明州の定海から風に乗って3日間航海し、さらに5日後に黒山に到着、高麗の国境に入った。黒山で大小さまざまな島と幾多の岩礁の間を抜け、船の速度を上げて、7日後に礼成江に到逹した」。明州は、舟山群島がある揚子江の河口の昔の都市で、今の寧波だ。宋は、華北の遼(契丹)と金(女真)の勢いに押されて、東アジアの宗主国の地位を失った。その際、対外貿易の中心を徐々に南東の沿海に移し、新たな交易の中心地となったところだ。唐に留学し、新羅の貿易船で戻った日本の僧侶・円仁は『入唐求法巡礼行記』で、9世紀の中頃には黒山島にすでに300〜400世帯が住んでいたと記している。10世紀以降は南路の要衝であり寄港地となったため、はるかに多くの人が住んでいたはずだ。

また、朝鮮後期の学者イ・ジュンファン(李重煥、1690~1756)の『択里志』では、霊岩の海辺について新羅時代に唐への朝貢船が出航したところだと紹介し「ここから1日行けば黒山島に至り、もう1日行けば紅島に至り、さらに1日行けば可居島に至る。そこで北東風に乗り、3日で中国の台州寧波府定海に到着する」と明州への航路について記している。この海路は、唐で文名を馳せた新羅人チェ・チウォン(崔致遠)が11歳で唐に留学した経路であり、『漂海録』(1488)を残した朝鮮人チェ・ブ(崔溥)が42人の仲間とともに済州で嵐に遭って漂流の末に明に流された経路でもある。

しかし、恵まれた自然環境を持ち、長きにわたり国際的な海上交通の要衝でもあり続けた黒山島は、韓国人の心に進取的でも豊かでもない印象で描かれている。

沙里村の山裾の斜面には、チョン・ヤクチョン(丁若銓)が流刑の地で村の子供たちを教えたという沙村書堂が復元されている。

19世紀に入ると「三政の紊乱」に要約される苛政、最果ての島で暮らす人々の辛い生活、そして島の住民と交流しながら流刑生活を送った実直なソンビ(官職につかない学識者)への尊敬と不憫の念が絡み合い、暗く沈んだ黒山の神話が生まれたのだ。

「黒い山」、「黒い海」

多くの韓国人は、黒山島という地名を聞くと、真っ先に「流刑地」を思い浮かべる。宋の使臣・徐兢も『宣和奉使高麗図経』に「高麗で大きな罪を犯したが、死を免れた者は、ほとんどここに島流しされる」と書いており、黒山島は昔から有名な流刑地だったようだ。しかし朝鮮時代以降、少なくとも流刑される人数は、済州島や巨済島の方が多かった。また朝鮮初期、官吏4人中1人が島流しにあったという統計もあることから、恐らく流刑地だったという事実が島にとって汚点にならなかったのだろう。黒山島を世に知らしめたのは、19世紀初めに流されてきたチョン・ヤクチョン(丁若銓、1758~1816)だ。

チョン・ヤクチョン(丁若銓)とヤクチョン(若鍾)、ヤギョン(若鏞)兄弟は、聡明で才気に溢れ、正祖(朝鮮22代国王)の寵愛を受けて官吏として出世した。留学し、西洋の学問や思想にも開放的で、カトリックを信仰するまでになった。しかし、カトリックを容認した正祖が亡くなった翌年(1801)、カトリックへの迫害が始まるとヤクチョン(若鍾)は殉教し、ヤクチョン(若銓)とヤギョン(若鏞)は島流しされた。チョン・ヤクチョン(丁若銓)は亡くなるまでの16年間、当時は小黒山と呼ばれた牛耳島で9年、現在の黒山島である大黒山で7年過ごした。

黒山島といえば、韓国人にとっては、いくつかの歴史的な場面が重なる場所だ。高麗が滅びた後に誕生した朝鮮王朝は、倭寇の出没を理由に黒山島の住民を皆、栄山浦に強制移住させることで、黒山島を絶海の孤島にした。いわゆる空島政策だ。そうして15世紀以降、東アジアの海上交易は途絶え、黒山島は歴史の舞台から姿を消した。ヨーロッパ人が大航海時代を迎えようとしていた時、朝鮮と明はむしろ閉鎖へと向かったのだ。

この島に再び人が集まってきたのは、文禄の役後の17世紀からだ。日本との苦しい戦争を経て、地方の統制力が著しく弱くなると、社会のあらゆる差別と束縛から脱し、新たな地を求める人たちにとって、島は自由に隠れ住むのに最適な場所だった。生活環境は厳しかったが、数千年の間変わることなく、少なくとも自然は人を差別しなかった。島を旅したと見られる「入島祖記念碑」の主役は、たいていこの時期に島に入って子孫を増やした人物だ。そして、19世紀に入ると「三政の紊乱」に要約される苛政、最果ての島で暮らす人々の辛い生活、そして島の住民と交流しながら流刑生活を送った実直なソンビ(官職につかない学識者)への尊敬と不憫の念が絡み合い、暗く沈んだ黒山の神話が生まれたのだ。流刑地にあっても、近海の海産物を調査・分類し、優れた海洋生物学書『茲山魚譜』を残したチョン・ヤクチョン(丁若銓)。彼を主人公にした数多くの文学作品が生まれているのも、そうした背景があるからだ。

チョン・ヤクチョン(丁若銓)は『茲山魚譜』の序文に「黒山という名は暗く物悲しく、とても恐ろしい印象を与えるため、家族は手紙を書くときに、いつも黒山を茲山と書いた」と記している。韓国を含む東洋文化圏で、黒は北を意味する。南路の真ん中を黒水洋と呼ぶのは、中国の南側から見ると北側にあるからだ。『宣和奉使高麗図経』にも「黒水洋とは、すなわち北海洋だ」とはっきりと書かれている。したがって、黒山は北にある山であり、北東へ流れる黒潮にも同様に「黒」が使われている。しかし、黒には「暗い、間違った」という否定的な意味も込められているため、「遠い、遥か、奥深い」という意味の「茲」に置き換えた気持ちは理解できる。そうした黒山からの連想は、個別的なように見えるが普遍的で、個人的ながらも社会的だという点で、今の韓国人の願望と生きる姿勢を反映している。

長島(チャンド)から見た黒山島。水煙に包まれている。

貝塚とドルメン

では、いつから黒山島に人が住むようになったのだろうか。どうしてこの島へ来たのだろうか。こうした疑問は、数人が残したわずかな文章に縛られた陳腐な有史時代を超え、はるかな想像力を呼び覚ます。学者によると、最後の氷河期であるウルム氷河期を経て、温帯気候が始まる紀元前2万5000年頃に、今日のような気候環境が形成されたという。その当時は、氷河が溶ける直前で、海面は今より140mも低かった。その頃の黒山島の海岸線を想像すると、可居島、紅島、永山島、長島、上苔島、下苔島など296の有・無人島からなる黒山群島は陸続きで、朝鮮半島は大陸だけでなく日本列島ともつながっていたはずだ。

鎮里(チンリ)の無心寺禅院址。三重石塔と石燈だけが、9世紀に寺が建てられ、14世紀まで存在していた証拠となっている。

気候が暖かくなると、海に出て魚を捕って暮らしただろう。冒険心の強い者は、最も有用な食糧であるクジラを追って移動し、その中には種もみを持つ者もいただろう。ドルメンは、農耕文化と関連が深い。東アジア地域では、ドルメンが中国の浙江省、山東半島、遼東地方、そして韓国の西側の沿岸に環状に広がっている。黒山島旅客船ターミナルから遠くない竹項里地域で発見された貝塚と、その上の鎮里の丘に並んだ南方式支石墓(ドルメン)群が、そうした事実を証明している。海面が今の高さになったのは、わずか4000年前のことだ。

その4000年の間、利用してきた港が、今の黒山港だ。再び有史時代に戻って、1000年前の記録を見てみよう。「黒山は白山の南東にあり、互いに見渡せるほど近い。初めて見ると、非常に高く険しい。近付けば、幾重にも重なり合った姿が見られる。前の小さな峰の真ん中が洞窟のように空いていて、間にへこんだ所があり、船を隠せるほどだ」(『宣和奉使高麗図経』)。ドルメンがある鎮里という地名は、水軍鎮(軍営)があった集落という意味だ。

このように天然の良港である黒山港は、今も漁業基地として遠い海に出る船のための補給と休息の地、強風からの避難先として役割を果たしている。この島を中心に4~10月まで漁船が集まり、1970年代まで盛んだった波市(漁場で開かれる市場)とまではいえないが、大規模な魚市場が開かれる。アジ、サバ、イシモチ、サメ、タチウオ、ガンギエイなどの魚がたくさん捕れる。特に、韓国では黒山島のガンギエイは貴重で特別なものとされ、値も張る。

鎮里の支石墓(ドルメン)群は、青銅器時代以前から黒山島に人が住んでいたことを物語っている。

陸の道、空の道

黒山島を1周する25.4kmの海岸道路が完成してから、まだ16年しか経っていない。この道を造るのに27年もかかったほど、山が深く森は鬱蒼としている。そのため、黒山島の村は、それぞれに接岸可能な港を持っている。水路の方がずっと速くて安全だからだ。面事務所(村役場)のある鎮里を出発して堂山を経て、左側の海岸道路に入ると、まず見えるのが館舎址と無心寺禅院址だ。最近の調査によって、記録上で使臣が泊まったという館舎の敷地が確認された。また、石塔と石燈から寺だったと考えられてはいたが「無心寺禅院」と刻まれた瓦片が見つかったことで、寺の名が分かった。海を行き交う人々は、ここで無事と安寧を祈ったのだろう。曲がりくねった峠道を登っていくと、9世紀初めに海上王チャン・ボゴ(張保皐、~846)が敵の侵入を阻むために築いたという上羅山の半月城がある。その頂上には、烽火台と祭祀のための敷地がある。これらは全て、黒山島が海上貿易の拠点だったことを物語る海洋文化の痕跡だ。

チョン・ヤクチョン(丁若銓)が沙村書堂を建て、村の子供たちを教えたという沙里村に向かうと、屏風のように海を阻む長い島がある。これが長島だ。頂上には、島嶼地域では珍しく泥炭層の山岳湿地があり、島の住民にきれいな飲み水を提供している。また、ここには約500種の生物が生息している。その昔、牧場にされそうだったが、村の人が買い上げて管理してきた。2005年にはその価値を認められて、ラムサール条約登録湿地となった。

昨年末、黒山島に1.2kmの滑走路を持つミニ空港を新設すると政府が発表したことで、一時、黒山島の地価が跳ね上がったという。計画通り2020年までに空港が完成すれば、50人乗りのプロペラ機でソウルから黒山島まで1時間ほどで行けるようになる。島が並ぶ黒山群島を見下ろし、歓声を上げる新婚夫婦を見る日も、そう遠くはなさそうだ。

「中国の使臣の船が到着すると、夜には山頂に烽火をともす。多くの山々で順に信号を送り合い、烽火は王城まで至る。その烽火はこの山から始まる」(『宣和奉使高麗図経』)。あなたは、どんな黒山島がお好みだろうか。

イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家

 

安洪范写真

 

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