百済は、中国から先進文物を受け入れて文化水準を高め、固有の文化を花咲かせた。さらに、その文化を隣国に伝える文化外交も行った。特に日本とは、文明と技術を伝え、その代わりに軍事的な支援を受けるなど、共存関係にあった。日本列島には、そうした緊密な交流の痕跡が今も多く残っている。
奈良の法隆寺・大宝蔵院の百済観音像(7世紀前半から中葉、209cm)珍しい作りの光背、八頭身のすらりとした姿、柔らかい肩と腰の線、優雅な微笑など、百済の仏像様式を今に伝えている。
7世紀にわたる百済の命運をかけた最後の決戦が行われる直前、663年10月4日、錦江の河口。660年に都の扶余が陥落して義慈王は降伏したが、国の復活を目指す復興運動が各地で絶えなかった。復興軍は、同盟国の日本に援軍の派遣を要請した。それを受けて日本は、2回にわたって4万人を超える兵力を送りこんだ。
百済・日本の連合軍と新羅・唐の連合軍の戦いは、二日にわたって海と陸で激しく繰り広げられた。古代東アジアにおける最大の国際戦といえる規模だった。結果は、新羅・唐の連合軍の大勝。百済は朝鮮半島の三国の中で最も外交感覚に優れた文化大国だったが、滅亡という悲運から逃れることはできなかった。日本の援軍は、百済の卓越した国際性を物語る最後の一コマだったともいえる。
百済が滅亡した後も、日本との密接な関係は続いた。日本の有力な家柄の系譜をまとめた『新撰姓氏録』が、815年に天皇の命により編纂された。その結果、3分の1が渡来人で、そのほとんどは百済からの渡来人だった。古代日本は百済との交流を通じて文化を育み、国の基盤をつくった。9世紀初めになっても日本の支配層の何割かが、百済系渡来人の子孫で占められていたのだ。
3度の大規模な移住
百済人は、3回にわたって集団で玄界灘を渡ったものとみられる。1回目の移住は、4世紀半ば以降、百済と高句麗の相次ぐ戦争がきっかけとなった。百済は軍事力を強化するため、日本と積極的な交流を図った。そのような国際情勢の中で、百済は学者であった阿直岐と王仁を日本に派遣した。まず、阿直岐が馬2頭を引いて日本に渡り、馬の飼育を担当したが、よく経書を読んだので皇太子・菟道稚郎子の師となった。阿直岐の推薦で百済から日本に渡来した王仁博士は、漢学を教えた。漢字と儒教を象徴する千字文と論語を伝えた人物で、日本では「わに」と呼ばれている。王仁の子孫は代々、宮中の文書の作成や記録、出納、財政などを担当し、日本列島に定着した。
大阪府枚方市にある百済王神社は、百済王氏の氏族の霊廟。7世紀に大阪南部に渡った百済王の子孫は、8世紀にここに移り住んだ後、歴代百済王の位牌をまつる百済寺とこの霊廟を建立した。共に消失し、現在の建物は2002年に再築されたもの。
百済は475年、勢力を強めた高句麗によって首都の慰礼城(漢城)を落とされ、南にある公州に都を移した。2回目の大規模な移住は、この時期と関連がある。高句麗の脅威によって百済と日本の同盟関係は一層緊密になり、百済は軍事的な支援を受ける代わりに、様々な技術や仏教などの知識を持つ者を多数、日本に派遣したのだ。特に武寧王(在位501~523)と聖王(在位523~554)の時代には、日本との交流が盛んに行なわれた。日本が仏教を受け入れた当時、主に仏教などにおいて新しい技術と学識を兼ね備えた者が、百済から日本に渡った。彼らの活躍によって、日本列島においても豪族の連合体を超える国の基盤が徐々に構築され、飛鳥時代の華やかな仏教文化が花開いた。8世紀末に奈良から京都に遷都し、平安時代を開いた桓武天皇(在位781~806)の母親は、百済の武寧王の子孫だと知られており、2001年に明仁天皇が公の場で言及して話題となった。
そして3回目の大規模な移住は、百済の滅亡と前後して、王族を含む大勢の支配層が日本に渡った時期である。『日本書紀』の663年の記録によると、彼らは「百済という名は、今日で終わった。(先祖の)墓を二度と訪れることができなくなった」と嘆きながら、退却する日本の船に乗ったという。その数は、資料を根拠に算定しただけでも3千人を超え、60人の高官も含まれている。彼らは7世紀後半の日本において、中央集権的な古代国家の建設が本格化する中で、中核的な技術官僚として活躍して歴史に名を残した。
百済仏教と飛鳥文化
4世紀半ば、論語と千字文を携えて日本に渡った王仁(わに)博士は、日本の古代文化の形成に大きく貢献し、日本で生涯を終えた。大阪府枚方市にある王仁博士の墓(推定)は、大阪府の史跡に指定されている。墓石には「博士王仁之墓」と刻まれている。
朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の三国は、漢訳された仏教の経典を受け入れることで、思想的な統一、王権の強化、文化の発展を成し遂げた。日本も同様だ。隨の歴史書には、日本は百済から仏教の経典が伝えられた後、本格的な文字文化が始まったと記録されている。百済の聖王は6世紀半ば、初めて日本に仏像と仏教の経典を伝え、仏教が定着するまで多くの者を日本に送った。日本最古の寺院である飛鳥寺の建立に当たり、僧侶、建築技術者、仏画師まで派遣している。寺院の落成式には、当時の権力者100人ほどが百済の服を着て参列したという。初期の日本仏教は、百済との緊密な交流を通じて、飛鳥を中心に基盤を築いていったのだ。
百済は、日本との交流に漢字と仏教を積極的に活用した。さらに、中国から日本に様々な文化を伝える橋渡しの役割も担っていた。一つ例を挙げよう。
U字型の金属製の釵子(かんざし)は、3世紀以降の中国の墓で確認されるもので、百済を経て日本に入ったとみられている。近畿地方の百済系古墳の副葬品として、発見されることが多い。日本列島に定着した百済の民は、東アジアで流行していた装身具まで伝えたわけだ。
2体の仏像の微笑
大阪市南部の東住吉区にある百済大橋。この地区には、百済という名の入った駅や学校などがいくつも残っており、今でも韓国・朝鮮系日本人が多く住んでいる。
前述した通り、復興運動が失敗に終わり、百済は姿を消した。しかし、文化大国だった百済の面影は、日本列島で蘇った。奈良の東大寺は、ユネスコ世界遺産に登録されている仏教文化の宝庫であり、百済の痕跡が多く残っている。東大寺を代表する国宝の大仏を作ったのは、百済が滅亡した後に日本に渡った流民の子孫だ。そして、百済王族の子孫は金鉱を発見し、大仏のメッキに必要な金を献じた。百済が磨き上げた仏教文化の神髄は、日本で脈々と受け継がれていったのだ。
百済系渡来人には、大きく二つの有力な集団があった。一つは畿内に定着した漢(あや)氏で、馬具、絹織物、土器、鍛冶などの技術者が中心だった。この漢氏と共に渡来人の二大勢力だったのが、秦(はた)氏だ。彼らは畿内北部(京都付近)に定着して代々、養蚕、織物、治水などを担当していた。子孫は多くの名字に分かれていったが、1994年に第80代内閣総理大臣に就任した羽田孜元首相もその末裔だという。
603年に創建された広隆寺は本来、秦氏の氏寺だった。京都北部に位置するこの古刹には、国宝の仏像が6体もある。その中でも最高峰とされるのは、木造の弥勒菩薩半跏思惟像だ。人間の苦痛に対する深い思索が秘められたこの仏像は、長きにわたり多くの人を魅了してきた。哲学者のカール・ヤスパースは「人間実存の最高の姿」と称賛している。その仏像と双子のように似ている金銅弥勒菩薩半跏思惟像が現在、韓国の国宝83号としてソウルの国立中央博物館にある。2体の仏像の微笑は非常によく似ており、何処で誰が作ったのか判明していない点も共通している。よく似た2体の仏像を巡って、それを作ったのが百済人なのか新羅人なのか議論が絶えない。だが、その微笑に込められているのは日本、百済、新羅にとどまらず、全ての人間の救済ではないだろうか。
復興運動が失敗に終わり、百済は姿を消した。しかし、文化大国だった百済の面影は、日本列島で蘇った。百済が磨き上げた仏教文化の神髄は、日本で脈々と受け継がれていったのだ。
百済人の面影を探して
日本の中の百済は、近畿全域に点在している。西日本の玄関口である関西国際空港から、百済の散策に出かけてみよう。
最初に訪れるのは、日本第2の都市・大阪。義慈王の息子である禅広は、百済が滅亡した後、日本で余生を送った。彼の名字は百済王氏だった。彼を含む王族の子孫は流民と共に、以前から多くの渡来人が暮らしていた大阪市南部の百済群に定着した。今も多くの在日韓国人が、その地域に当たる生野に住んでいる。その近くでは、百済という名の入った駅、橋、小学校なども目にする。
百済王氏は、曽孫の敬福の代に大阪北部の枚方市に拠点を移した。奈良の東大寺の大仏建立の際に金を献じたのが、他でもない敬福だ。敬福は氏寺として百済寺という大きな寺院を建てたが、火災で焼失して現在は公園になっている。その付近には当時一緒に建立された百済王神社があり、現在は改築されたものである。
奈良の元興寺の本堂(右)と禅堂の屋根には、百済の職人による飛鳥時代の瓦が、一部残っている。飛鳥から平城京へ都を移した際、百済人によって596年に建てられた日本最古の本格的寺院・飛鳥寺を移築(718年)したためだ。
奈良の法隆寺の五重塔。法隆寺が607年創建され、670年に焼失した後、8世初めに再建されたとみられる。高さ32.5mで、7世紀の百済の木塔様式がうかがえる。
次に訪れるのは奈良。南の飛鳥には飛鳥寺があるが、百済人の面影はあまり感じられない。遷都によって、百済人の寺院も奈良に移されたためだ。新しく構えたのは元興寺。奈良時代には東大寺、興福寺と共に大寺院として名を馳せたが、中世以降に衰えて今に至る。国宝の本堂の瓦は、じっくり見てほしい。百済の職人による飛鳥時代の瓦が、一部残っているからだ。
元興寺からそれほど遠くない東大寺を見た後、法隆寺に向かおう。広い境内に数多くの国宝があるが、百済の面影を探すのなら、百済観音像は見逃せない。高さ2mを超える木造の像は、人体の美意識を体現したと絶賛され、芸術創作のインスピレーションを掻き立ててきた。フランスと日本が1997年、それぞれ自国を代表する国宝級の美術品を公開し合うイベントに際して、ルーヴル美術館でこの百済観音像が展示された。
続いて、京都行きの列車で北を目指してみよう。「清水寺を見ずして、京都を語るべからず」ともいわれるが、この寺院も百済と無縁ではない。坂上田村麻呂は、桓武天皇の時代に東北地方を平定した英雄であり、清水寺の創建を実質的に主導した人物でもある。国宝の本堂は、彼が寄進した自宅が基になっていた。坂上氏の元をたどると、前述した漢氏に行きつく。百済王の子孫が天皇の外戚だった時代、彼らは軍事の要職に就き、平安時代を開いて日本の新しい未来をつくったのだ。
最後に、反時計回りに京都市内を回って訪れるのが広隆寺。木造の弥勒菩薩半跏思惟像など仏像を鑑賞して仏教文化の極みを味わい、亡国の悲しみを胸に抱いた百済流民に思いを馳せてみよう。
未来のための願い
日本と百済の同盟がなくなり、古代の朝鮮半島と日本列島を結ぶつながりも消えた。そして不幸な決別は、その後の日韓関係にも暗雲を漂わせた。日本は16世紀末、朝鮮に侵攻して大きな人的・物的被害を与え、1910年には大韓帝国を植民地化した。その後35年間の支配によってもたらされた歴史の傷跡は、いまだに癒されていない。今後、日本と韓国はどのような関係を築いていけばいいのだろうか。日韓両国が1500年前の先人の開放性、友情、国際感覚を思い起こせば、その答えが少しでも早く見つかるかもしれない。