済州市朝天邑にある100万坪の広大な「済州石文化公園」。石は済州の本質なので、ここに石をテーマにした公園があるのも当然だと考えられている。 しかし、一人の先覚者の粘り強い努力がなければ、済州の説話と石で造られたこの美しい公園は、存在できなかったはずだ。
済州市朝天邑(チョチョンウッ)にある済州石文化公園は、済州道庁が敷地と費用を支援し、ペク・ウンチョル団長が企画している。100万坪という広い敷地に、済州の民俗、神話、歴史が石によって表現されている。
青年ペク・ウンチョルは1960年代後半、ソウル芸術大学校で演劇の演出を学んでいた。そして、兵役のために入隊した江原道の山奥の工兵隊で、樹齢数百年の木々の神秘的な姿と運命的に出会った。彼は、枯れた木の根を傷つけないように丁寧に掘り起こし、1日で終わる作業を7日以上かけて行った。自然主義的な彼が、除隊後に直面した現実は、悲惨なものだった。その当時、政府の主導で開発を進める「セマウル運動」によって、韓国の地形は急激に変わっていた。
枯れた木の根との出会い
済州石文化公園の第1コースにある「トルハルバン」(済州特別自治道民俗資料2-21号)は、およそ 300年前に造られたと推定される。大きな目、ぎゅっと閉じた口、頭にかぶったカムトゥ(冠)、両手をおなかに乗せて立っている姿など、トルハルバンの典型といえる。もともと済州の人たちは「チャンスン(村の守護神)」を意味する「ポクスモリ」と呼んでいたが、観光商品としてトルハルバンという名前が広がった。
「ただ経済的に豊かに暮らそうというスローガンの下、村の環境を現代化し、自然をむやみに破壊する様子を見て、怒りがこみ上げてきました。微力ながら、一つでも守り抜こうと思ったのです」。
一夜にして道が無くなったかと思えば、新しい道ができたりもした当時、ペク・ウンチョル氏は、そんな思いであちこち歩き回って拾い集めたもので、済州市内に小さな「耽羅木物苑」を造り、その後さらに発展させて「耽羅木石苑」とした。自然の大切さに早くから気づいていた彼は、石と木をテーマにした庭園を企画し、さらにストーリーテリングの技法を取り入れるなど創造性を発揮した。昔から伝わる説話でありながら民謡や映画としても広く知られる「カプトリとカプスニ」の恋の物語を石と木で演出したのだ。そのおかげで、韓国の代表的な新婚旅行先だった済州で、新婚夫婦の必須コースになった。
この独特なコンセプトの庭園は、2001年にフランス文化・通信省建築遺産局(DAPA)が発行した『Monumental 2001:
Jardins historiques』で世界12大庭園の一つとして紹介された。しかし、ペク・ウンチョル氏は、そんな立派な庭園さえ思い切って閉園してしまう。そのきっかけは1988年に遡る。写真家でもある彼は、作品の展示のためにフランスのパリを訪れた。その世界的な芸術の都で済州の価値が認められていることを知り、それまで気づいていなかった自分を恥じた。フランスから帰国するや運転を学び、その後10年間で120万㎞を走って、消えゆく民俗資料や石の収集に取り組んだ。そんなある日、いつも通っていた海岸道路で、深いため息と共に涙を流した。
「済州の自然が醸し出す霊的な雰囲気と、海に流れ込んだ溶岩による色とりどりの石から、自分が生まれ育ったこの島の美しさに改めて気づかされました」。
石で語る神話
ペク・ウンチョル団長は、生まれ育った済州の美しさと魂を様々な石に見出し、2020年完成予定のソルムンデハルマン展示館に力を注いでいる。
その日の出来事が、自分の分身のような存在だった木石苑の閉園と「これから100年を見据えた石文化公園」という構想につながった。現在、済州石文化公園がある場所を見て、胸がさらに高鳴ったペク・ウンチョル氏は「もうすぐ消えてしまうかもしれない、この場所を守りたい」と思い「ここにソルムンデハルマンを再現しよう」と心に決めた。
ソルムンデハルマンは、済州の創造説話に登場する主人公で、背が高くて力の強い巨大な女神だ。彼女は「五百将軍」と呼ばれる500人の息子を産んだが、深刻な干ばつで飢えに苦しむ息子たちのため、おかゆを作っている時に、誤って釜に落ちて死んでしまったという。ペク・ウンチョル氏は、よく知られているこの説話の主人公から、済州の女性の生活を支配していた労働の起源と共に、人類愛へと広がる偉大な母性を見出し、それを済州石文化公園のキーワードにした。
彼はそれまで集めた民俗資料をはじめ、石一つまで済州道に寄贈した。自治体は100万坪の敷地を設けて、すべての費用を負担することにした。彼は1999年に済州道庁と石文化公園の造成に向けた20年間の官民協約を結び、展示と演出を総括する企画団長に就いた。2006年に開園した済州石文化公園は、今でも未完成だ。かつてゴミ捨て場だった地下に博物館が造られ、公演場を兼ねた五百将軍ギャラリー、伝統的なわらぶき屋根の集落、自然休養林などが設けられた。だが、ソルムンデハルマン展示館は、2020年の完成を目指して工事が行われている。そのため、彼は石文化公園の約5坪ほどの狭い場所で一人暮らしをしながら、自分の想像と直観に基づいた演出を続けている。
「クモは、考えながら糸を出しているのでしょうか。ただ自然に出てくるのです。私もそうです」。
数十年間、思い描いてきた夢を実現するため、最後の拍車をかけている中、こう話し続けた。
「後世に伝える歴史の流れをソルムンデハルマン展示館に収めようと思います。民俗、神話、歴史は三つでありながら一つであり、一つでありながら三つでもあります。すべて一つにつながっているのですが、済州においてその中核は石です。済州では石の上で生き、石の上で死にます。よく考えてみれば、夜空の星も宇宙もすべて石なのです」。
公園の名前に「石文化」を入れたのも「すべてが石の上に花開いた済州人の文化であることを強調したかったから」だと言う。彼の言葉は自信に満ちていた。
「石を通じて平和に貢献できるような仕事に、残りの人生をかけたいと思います。一種の瞑想と癒しのようなものでしょうか。石はそれ自体が霊的な存在です。最近の人々は、物質的なものにとらわれ過ぎているような気がします。他の世界の存在に気づくことが大事だと思います」。
メキシコ出身の世界的な建築家である故リカルド・レゴレッタ氏は、石文化公園について次のように話している。
「博物館を石で満たすのは、非常に難しい挑戦だったはずだ。しかし、中山間地域という特性をよく理解した上で、その自然環境と程よく調和させた。特にソルムンデハルマンの伝説は、とても興味深い」。
また、この公園を訪れたフランスの写真家レオナール・ド・セルバ氏は「済州の石は、不思議な気配が感じられる。この石の島で、石文化公園は済州らしい神話を生み出せるだろう。イースター島の巨大な石像が、どこから来たか分からなくても、有名であるのと同じように」という感想を述べている。
「後世に伝える歴史の流れをソルムンデハルマン展示館に収めようと思います。民俗、神話、歴史は三つでありながら一つであり、一つでありながら三つでもあります。すべて一つにつながっているのですが、済州においてその中核は石です。済州では石の上で生き、石の上で死にます。 よく考えてみれば、夜空の星も宇宙もすべて石なのです」
第3コースには、今ではほとんど見られない済州の伝統的なわらぶき屋根の家が50棟再現され、昔の島の生活を垣間見ることができる。昔の家200棟から得た古い資材が使われている。
石文化公園に捧げた人生
済州石博物館地下1階の石ギャラリーに展示されている自然石。溶岩が固まった自然石の中から、変わった形のものが集められている。
ペク・ウンチョル氏は、親から「眼福」というありがたい贈り物を受けたと言う。「他の人の目には見えない人間のあらゆる表情を石から発見し、捨てられたものから宝物を見つける目を持って生まれた」と信じているからだ。済州がソルムンデハルマンという女神によって誕生したように、彼がここまで来られたのも女性のおかげだ。肝の据わった母は、息子の夢のため、自分の果樹園に30坪の倉庫を建てた。まともな職に就かず、山や野で石を拾い歩く彼に対して、周りの人々は、くだらないと思ったかもしれない。だが、母親は彼に最初の展示空間を与えたパートナーであり、支援者でもあった。母親は7人兄妹の中でも、特にペク・ウンチョル氏と仲が良かった。息子が見事な石を拾ってくると、手を叩いて喜んだと言う。大変な道を彼と共に黙々と歩んでくれた妻の功は、言うまでもない。
「済州は石で造られた島です。固まった溶岩の上にコッチャワル(原生林)ができ、民家がある場所には、万里の長城よりも長い石垣が造られています。石によって霊的な雰囲気が醸し出されています。
野外展示場では、ひき臼やチョンジュソク(定柱石、門の柱)など、済州の衣食住に関する石の民俗資料を見ることができる。ペク・ウンチョル団長が、数十年かけて収集したものだ。
特に、済州に散在する48基のトルハルバン(済州の方言で石のおじいさんの意)は、最高の宝物です。あの玄武岩の石像は、世界のどこにもありません。倭寇の侵略に立ち向かう守り神として造られたトルハルバンは、大きく見開いた目を夜中に見ると本当に怖いくらいです。どれも名のない石工が造ったものですが、すべてのトルハルバンには、それぞれ魂が宿っています」。
彼は、済州の童子石を通して「人間世界の先にあるものを見る」と言う。「霊的には童子石、美学的にはトルハルバン、この二つが済州の象徴です。そのため、どうしても収集したいものに出会うと、経済的に苦しくても必ず手に入れました」。
彼が木石苑から石文化公園に運んだ収集品は、トラック500台分に達した。また、古い家200棟から得た資材で、わらぶき屋根の家50棟からなる中山間の村を再現した。この村は、民族の分断とイデオロギーの対立によって済州が経験した暗い現代史「済州島四・三事件」を扱った映画『チスル』(済州の方言でジャガイモの意)のロケ地でもある。
「単純な昔の村の再現ではなく、先祖の知恵を継承し、教育する文化体験の場を作ろうと思いました。他の所はなくなってしまうかもしれませんが、ここだけでも長く残ってほしいです」。
ペク・ウンチョル氏は、自分の目には「すべての石が目を閉じて瞑想しているように見える」と言う。それに共感するかどうかは別として、古い何かに出会いたい日には、この公園を訪れるのも一つの方法だ。時間の境界を超えて、自然が自分であり、自分が自然であることに気づくかもしれない。おそらくそこで白黒写真の風景のように古い帽子をかぶって土の道を歩く、白髪の仙人のような彼に出会えるだろう。
石の家 済州のもう一つの顔
済州道立・金昌烈(キム・チャンヨル)美術館を設計した建築事務所アーキプランは、コッチャワル(原生林)に噴出した火山島のような印象を与えるため、玄武岩を連想させる黒い打ちっ放しコンクリートで外壁を造り、所々に本物の玄武岩を使用して、一貫したイメージを持たせている。
済州を巨大な一つの火山岩と捉えることができるだろうか。米を主食としてきた韓国で、稲作に適さない韓国最南端の痩せた地。この島では、少し土を掘れば、どこでも石が出てくる。かつて済州の人々は、あちこちに転がっている石を拾い集め、家を建てて石垣を築いた。今では、掘り出した石を削ったり磨いたりして、建築資材として加工する工場がいくつもある。最近の建築ブームによって、火山岩で造られた資材のニーズが高まっているからだ。
10年ほど前から済州で建築ブームが巻き起こっているのは、観光地だけでなく「住みたい街」として急浮上し、朝鮮半島から転入する人口が増加し続けているからでもある。最近、済州のあちこちで新しい建物を見ると、公共施設や個人住宅、数多くのゲストハウスまで、それぞれに個性を表現している。そうした趣向を凝らした設計に欠かせないのが、済州の火山岩だ。
しかし、人気の高い「済州の石」は、情感あふれる色合いと質感にもかかわらず、家の骨組みには使えない。溶岩が冷えて固まった粗い構造なので、重さに耐えられないからだ。そのため、伝統的な家屋であれ現代的な建物であれ、壁や垣、庭など室内外の装飾に広く使われ、昔も今も済州の景観を特徴づける魅力的な要素になっている。
石の美感を抱いた美術館
「ヌルジャク(Neuljak)」は、100年以上前に建てられた典型的な済州の家を改造したゲストハウス。もともとわらぶき屋根だったが、1970年代初めにスレート屋根になった。それでも、外壁と石垣は昔のまま残っている。
空から見下ろすと、四角い石の塊を集めたような形の金昌烈(キム・チャンヨル)美術館。済州道が2016年、翰京面(ハンギョンミョン)の楮旨(チョジ)芸術村に開館した美術館だ。黒っぽい外観が一見、火山岩の塊ように感じられるが、よく見ると粗く仕上げられた打ちっ放しコンクリートを黒く塗ったものだ。なぜ、済州の石を使わなかったのだろうか。おそらく、ほとんどの観覧者が疑問に思うはずだ。
その理由は、前述したように、火山岩では大きな建物の骨組みを造ることができないからだ。また、壁面材としても適さない。それでも「済州の石のイメージ」を取り入れたかったのだろう。石こそ済州建築の中核でもあるからだ。
この美術館では、そのような深い悩みに対する答えをいくつも見つけることができる。加工されていない火山岩をまるで城壁のように高く積んだ入口の壁面装飾。美術館全体を囲むような鉄の網をかぶせた火山岩の垣。細かく砕いた火山岩が敷かれた屋根。さらに中央の庭を埋め尽くす池の真ん中に置かれた黒い大理石。この大理石も、思わず火山岩だと勘違いするように意図されている。
このように、済州島の地中深くに眠っている巨大な石の塊の重厚さと、島中に転がっている黒い石の日常的な風景を、現代的な美感で再現して観覧者に伝えるため、金昌烈美術館は「済州の原初的な夢」の象徴として見る者に迫ってくる。
石の温もりを分け合う家
「VTハガ・エスケープ」をエッグプラント・ファクトリーと共同設計したフィグ建築士事務所のキム・デイル(金大逸)所長は、旅行者が室内でも済州の村の風景を感じられるように、所々に玄武岩を使用した。このペンションに使われた済州の石は、空間を仕切るだけでなく、打ちっ放しコンクリートの外壁に造形美を与えている。
最近、涯月邑(エウォルウプ)に建てられた高級ペンション「VTハガ・エスケープ」は、建物の内外に火山岩の垣と壁が適切に用いられている。リビングに座ると、小さな庭を囲む石垣が目に入る。青い空の下、整然と積まれた石垣。その穏やかで平和な風景を眺めながら、落ち着いたひと時を過ごせるのが、このペンションの魅力だ。
鉄筋コンクリートの建物に、庭の垣までコンクリートだったなら、旅行者は魅力を感じただろうか。おそらく建築主と設計者は「古くて、でこぼこした石で、温かく心を通わせる」ことに共感し、それが利用者に温もりとして伝わるように工夫したのだろう。
「VTハガ・エスケープ」が、済州の石垣の現代的な応用だとすれば、2011年に旧左邑にオープンしたゲストハウス「ハムPDの石の家」は、100年以上の間、伝統的な家屋で流れてきた「石の歳月」を受け継いでいるといえる。オーナーが2014年に変わり、今は「ヌルジャク(Neuljak)」という名前になっている。それでも、昔の家3棟分の骨組み、壁、石垣、庭をそのまま生かし、内部に手を加えた建物は、依然として旅行者の安らぎの空間だ。
宿泊客同士があいさつを交わし、夕方になると時折みんなが集まって、小さなパーティーを開いたりする。この素朴なゲストハウスは、まるで各地に散らばっている家族が集まる盆や正月の故郷の家とよく似ている。前オーナーは「故郷の情趣」が息づく村に住みたくて、済州島に移住してきたので、昔の家をそのまま残しておきたかったと話していた。そうした心は、今でも利用者に余すことなく伝えられているようだ。
新しい家を建てるにせよ、古い家を直すにせよ、新しい生活の場を求めて済州に移り住んだ人は、この島で最初に目を引く低く黒い石垣と海岸の輝く石との出会いを忘れられないだろう。胸に収めたその美しさが、リビングで寝室で庭で情感豊かによみがえっている。