済州の緩やかな丘にある墓。それを取り囲む低い石垣(サンダム)と、そこに立っている無邪気な表情の童子石は、火山島・済州の風土と信仰が作り上げた象徴だ。技巧とは縁のない謙虚で素朴な造形から、済州の人々が自然と共に生きてきた歴史、そして生と死への認識をうかがい知ることができる。
旧左邑のタンオルムの「サンダム」。墓の四方を囲む石垣で、朝鮮半島では見られない。放牧の牛馬が墓を壊したり、火の手が広がることを防いでいる。ほとんどは中山間地域やオルム(側火山)にあるが、畑の中に造られている場合もある。
朝鮮半島に属する約3300の島の中で最も大きい済州島は、一つの巨大な山といえる。標高1950mの漢拏山(ハルラサン)が、島全体にわたって緩やかに横たわっているからだ。火山島・済州は、約170万年前に漢拏山の噴火によって造られ、地表と地下には溶岩噴出の痕跡が数多く残っている。最たるものは、済州の独特な景観を象徴する玄武岩だ。済州島では、どの角度から見ても小さな穴が無数に開いた黒っぽい玄武岩が、どこでも見られる。そのため、石と風と女が多い「三多島」とも呼ばれている。
人は与えられた環境に適応し、それを活用しながら生きていく。済州の人々も、避けることのできない自然条件である海風を防ぐため、他の自然条件である石を用いた。海食崖から剥がれ落ちたり、波食台に転がっている石を拾い集めて、風や波を防ぐために海岸や畑のあぜに石垣を築いた。また、墓を保護する石垣(サンダム)を積み、死者を守護するように童子石を墓の周りに立てた。
済州を象徴する石垣は、数世代にわたって積み上げられた労働の蓄積だ。父が大きな石を適当なサイズに切り出すと、息子がそれを運んで石垣を積む。母は畑を耕す度に、草取り鎌に当たる小石で石垣の隙間を埋める。この単純で大変な作業が、どれほど長く繰り返されたのか計り知れない。空から済州島を見下ろすと、大小様々な黒い石垣が自由奔放な線を描きながら、島全体に張り巡らされている。まるで巨大な美術作品のようだ。大地をキャンバスにした作者未詳の不思議な「芸術作品」。それが特別なのは、人工的ではなく、自然の美しさに満ちているからだ。
済州の石垣は、決まった規則や様式がなく、自由に曲がりくねり、大地を這っている。そして、その石垣が描く線は、まるで風に乗って運ばれてきたように自然だ。そのため「済州の大地と石垣は、最初から一つになっていた」と言う人もいるほどだ。
済州の人々は、石垣に囲まれた家で生まれて、生涯を過ごし、 死後も石垣を張り巡らせた墓に葬られた。そのようにして、 石は人間の生と死に深く関わってきた。
墓を守る童子石は、幼い男児・女児の姿をした石像。済州の童子石の特徴は、粗い玄武岩の質感と、飾り気がなく霊的な雰囲気を生かした表現
サンダムは、一重に積まれた「ウェダム」と二重に積まれた「キョプタム」に大きく分けられる。この石垣の大きさと形は、その家の財力の表れでもある。
死者のための石垣
島全体にある済州の石は、神からの贈り物だろうか。それとも災いだろうか。農家をてこずらせる時には、災いとなるだろう。だが、石がこのように多くなければ、人間と動物のすみかだけでなく、死者の魂が眠る墓もまともに造れなかったはずだ。済州の人々は、石垣に囲まれた家で生まれて、生涯を過ごし、死後も石垣を張り巡らせた墓に葬られた。そのようにして、石は人間の生と死に深く関わってきた。
済州のあちこちで見られる色々な形の石垣の中で、墓を囲むものを「サンダム」と呼ぶ。サンダムは、様々な用途の石垣の中でも、特に神聖視されている。墓を守るための垣であり、魂のよりどころを示す境界線でもあるからだ。サンダムには一重に積まれた「ウェダム」と二重に積まれた「キョプタム」がある。ウェダムは、形によって円形、ドングリ形、四角形に分けられる。墓の後方が狭い、台形のキョプタムもある。
サンダムには、霊魂が通る神の門である「オルレ」を設ける。サンダムの左側か右側に40~50cmほど開けられた場所だ。そして、オルレの左右の垣の上に、長い石を一つから三つ置いて、牛馬や人が出入りできないようにする。オルレの方向(左右)は、墓の主の性別と関係がある。男性の墓は死者の視点で左側に、女性の墓は右側に造り、合葬の場合は男性を中心にして左側に設ける。中には、サンダムの前面に造られることもある。二つ並んでいる双墓は、例外として左右両側にオルレを設けることもある。
サンダムは元々、畑ではなく野原にあったため、火災による焼失や牛馬など動物の侵入から墓を守るために必要だった。しかし、野原だった地が徐々に耕作地に変わり、畑の片隅に位置するようになった。もちろん、親戚などによる手入れが楽なように、畑の片隅に墓とサンダムを造ったのかもしれない。しかし、人家の近くにあっても、サンダムの石は勝手に触れてはいけない禁忌の対象だった。妥当な理由や許可なしに、サンダムを勝手に越えてはならなかった。もちろん例外もあった。遠くへ向かう旅人が道に迷った時に限って、サンダムに入って寝ると、墓の中の霊が守ってくれると信じられていた。
サンダムは一般の石垣とは違い、石を扱う済州の人々の技術と、品位ある造形的美学を感じさせる。その造形性を簡単に定義すると「韓国の線の美学」といえる。例えば、韓国の瓦の屋根は、端に行くほど軒の線が緩やかにせり上がり、まるでふわりと飛び立ちそうなリズム感を与えている。サンダムの線も、これと同じような美しさがある。低い後方からゆっくりとせり上がるように曲がり、前面の左端から再び緩やかに上がっていく。この線が、前面に中央に行くほど徐々に沈み込み、再び上に向かうと、反対の右端で左端と同じ高さになる。そこで止まったサンダムの線を見ると、実に穏やかだ。
霊の使い「童子石」
サンダムの中に立てる童子石は、その名の通り男児または女児の姿をしている。童子石の様々な機能は、死者の霊に対して礼を尽くすことにある。具体的には、崇拝、奉養、守護、装飾、呪術、遊戯などの機能だ。済州の童子石は、朝鮮半島から渡ってきた様々な氏族の入島始祖、赴任してきた牧使(地方高官)、済州出身の両班(高麗・朝鮮時代の支配階級)など土豪、流罪人などによって伝えられた。しかし、朝鮮半島の童子石は、仏教的な色彩が残ったまま、若干の地域的な特徴が加えられただけで、済州のものとは異なる。童子石は、儒教文化の中心である漢陽(現ソウル)で生まれた墓石だ。そこから遠く南の辺境にある済州に伝えられる過程で、各地域の独特な風習や様々な信仰が結びついた。さらに、済州の風土と思想が加えられたことで、非常に独特な童子石に生まれ変わったのだ。すなわち、済州の童子石の特徴は、仏教、シャーマニズム、道教、土俗的民間信仰など多くの要素が混じり合い、反映された点にある。
済州の童子石は、とても親近感を与える。特に18世紀、朝鮮王朝の英祖(在位1724~1776)と正祖(在位1776~1800)の時代の童子石は、目を大きく見開き、滑らかな線で精巧に造られている。それは、朝鮮半島との往来によって影響を受けたものと考えられる。済州の人々は、国喪のたびに王陵造りに志願して、朝鮮半島に渡った。仁祖(在位1623~1649)の時代、1629年に下された「出陸禁止令」によって、朝鮮半島への行き来が厳しく制限されたため、王陵造りは済州の人々が朝鮮半島に渡る良い機会だった。その際、王陵造りの過程で覚えた石像を再現したのが、今でも見られる済州の童子石だ。文人石(豪族の墓に立てられた石像)をかたどって造られたが、技術力の低いアマチュアの職人によって、全く違う形の石像に生まれ変わった。その結果、済州の童子石は、朝鮮半島では珍しい玄武岩を使っており、形もかなり違う。今では、飾り気のない美しさがもたらす生き生きとした原始性によって、済州の魅力的な顔として広く親しまれている。
日常生活の道具として使われた済州の石
火山島・済州島では玄武岩が多く、昔から主に石の生活道具が使われてきた。石の豊富さに加えて、雨が多くて湿度も高いため、木の道具はすぐに傷んでしまうからだ。済州の伝統的な石の生活道具として最も代表的なものは、ムルパン(壺の台)、ムルバンエ(ひき臼)、トットンシ(便所兼豚小屋)だ。その他に臼、火鉢、チョンジュソク(定柱石、門の柱)、トゴリ(くり鉢)などがある。今ではほとんど使われていないが、済州の人々にとって特別な思いが込められた道具だ。
ムルパン
ムルパンは、ホボク(水汲み用の壺)を置く台で、主に台所の扉の外に設けられる。
ムルパンは、ホボク(水汲み用の壺)を置く玄武岩の四角い台。機能性と人の動きを考えて、主に台所の扉の外に設けられる。済州の女性は何度も、ホボクを担いで村の共同の水汲み場から水を運んできて、この台に置いた。水汲み場は家から遠く離れていて、家ごと・村ごとに距離は違っていた。
海岸の村は、一般的に村の中心から1kmほど離れた場所で水が湧いていた。この水は「サンムル」と呼ばれる。水の量が潮差によって変わるため、潮の満ち引きに合わせて水を汲みに行った。山あいの村でも、雨水が溜まったポンチョンス(奉天水)をホボクで運んだり、木から流れ落ちる雨水を貯めたりして、生活用水として使った。サンムルが足りない所では、わらぶき屋根から流れ落ちる雨水も貯めておいた。
水は、主に女性・女児が運んだ。この水を飲用水とし牛や馬、豚にも飲ませた。済州の女性は、幼いころからホボクを担いでいた。ホボクで運んできた水を水甕に入れることから、毎日が始まった。ホボクは、水を運びやすいように工夫された丸くて赤茶色の壺だ。遠くから運んでも水がこぼれないように口は細くすぼまり、胴は丸く張っている。年齢に合わせて使えるように、様々な大きさのものがあった。
トルバンエ
トルバンエは、祭祀の餅を作る際に主に使われた。また、布地を柿渋で染める際にも有用だった
済州の人々は、家族の誕生日よりも、先祖を祭る祭祀を大切にした。その際、殻をとった穀物を粉にして餅を作るため、それぞれの家で臼が必要だった。この石のひき臼は、済州の方言で「トルバンエ」といい、2~3人以上の女性が交代でひいた。
臼は、作業服を作る際にも有用だった。済州の民家では、梅雨が明けると青柿を摘んできて、柿渋で布地を染めた。青柿を臼に入れてひくと、半月のような柿の種が出てくる(子供たちは、面白半分でこの渋柿の種を食べたりした)。青柿が適当に潰されると、麻や木綿の布を臼に置いて、手で満遍なく柿渋を塗り、石垣に干して日に当てる。生地が乾くと、再び水に濡らしては干し、これを繰り返す。10日ほど過ぎると、糊の利いた硬い布になる。この生地は「カルチョン」と呼ばれ、その布で作った服を「カルオッ」という。このカルチョンで、様々な作業服を作ると、汗をかいてもまとわりつかず、涼しい。また、洗濯をするほど硬くなり、色も濃くなる。
精米・精麦には、トルバンエよりも「ナムバンエ」と呼ばれる木の臼が好まれた。軽くて管理しやすいからだ。トルバンエを使わない時には庭の片隅に置き、ナムバンエは雨に濡れないように牛小屋の後ろに立てかけて保管した。
トットンシ
済州特有のトットンシは、石で囲った豚の畜舎であり、便所と続いていた。ここで作られる堆肥は、農作業に使われた。
済州では、豚を育てるために石垣を張り巡らせたものを「トットンシ」と呼ぶ。豚は済州で「トセギ」と呼ばれ、タンパク質の供給源として非常に重要な家畜だった。しかし、穀物が貴重だったため、主に人糞を与えていた。
豚の畜舎であるトットンシは便所でもあり、農作物の肥料を作る場所でもあった。床に麦わらを敷いておき、人糞を食べた豚がその上に排泄して踏みつけるうちに、肥料になった。冬になると、その肥料を垣の外の路地に積んで2カ月ほど発酵させ、早春になると麦の種と共に畑にまいた。
豚を家の敷地の中で育てた理由は、他にもある。済州では、子供の結婚が近づくと、子豚2匹を買ってきて育てた。1年ほど育てて大きくなると、結婚式の日取りに合わせて、その豚で「コギッパン」を作って招待客をもてなした。コギッパンは済州の料理で、豚肉3切れ、スンデ(豚の腸詰め)1切れ、豆腐1切れを盛り合わせたものだ。今も済州では「豚肉3切れ、いつ食べるの?」という言葉が「いつ結婚するの?」という意味で使われる。
人糞で育った豚「トンテジ」はもう見られないが、天然記念物として指定された黒豚は、済州が誇る特産物だ。