ソウルの旧市街地に位置する貞洞(チョンドン)は100年ほど前、大韓帝国(1897~1910)の短い歴史を見届けた歴史的空間だ。大韓帝国は、朝鮮王朝が近代国家へと生まれ変わるために宣布した国号。そこには、伝統と近代が共存する新しい皇宮・慶運宮(現在の徳寿宮)を囲むように、西欧列強の公使館が立ち並んでいた。事実上、韓国初の国際外交タウンだった貞洞は、近代的な教育機関、病院、商店などが建てられ、急激に流入してきた西洋文明の展示場でもあった。
ソウルの旧市街地に位置する徳寿宮。 正殿は、伝統的な様式の殿閣と20紀初に建設された西洋式の建物に囲まれている。朝鮮第26代国王・高宗は1897 年、徳寿宮で大韓帝国を宣布し、活発な外交を展開した。しかし、強制的な日韓併合条約によって1910年に主権を奪われた。 © 徳寿宮管理所
貞洞は100年ほど前、アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなど各国の公使館が先を争うように建てられ、「公使館区域」や「公使館通り」と呼ばれるようになった。多くの国が当時としては大規模な洋風の建物を建て、自国の力を示した。だがアメリカは、韓屋(韓国の伝統家屋)に公使館を開設した。その建物は、今もアメリカの大使官邸に残されている。
公使館の周辺には、西洋人が利用するホテルや商店などが建てられ、自ずと外国人街が形成された。朝鮮王朝の首都・漢城(現在のソウル)に住む西洋人は、ほとんどがその周辺に集まっていた。そこに住んだ最初の西洋人は、初代駐朝米国公使のルーシャス・ハーウッド・フットだ。彼は1882年に締結された米朝修好通商条約によって特命全権公使として翌1883年に朝鮮を訪れ、貞洞にある閔妃(高宗の妃)の親戚の家を買い取った。それが最初のアメリカ公使館となった。
外国人が集まり住むようになると、新しい風景も生み出された。米国公使館の隣には、米国北長老教会と米国北メソジスト監督教会の宣教地が設けられた。その宣教師が運営する培材学堂、梨花学堂、儆新学校など近代的な教育機関や病院も開設された。華やかな洋風の建物だけでなく、珍しい西洋の物品を扱う商店が立ち並び、その一帯は程なく近代西洋文明の展示場になった。貞洞は、当時の人たちにとって「近代」と「西洋」を代表するイメージだった。
1911年に完成した石造殿の1階中央ホールで、日本の官僚と写真を撮る英親王(前列中央)。英親王(李垠、1897~1970)は、大韓帝国最後の皇太子。 石造殿は、高宗が高官や大臣、外国使節に会うために用いられた。その後、日本統治時代に美術館、終戦後には米ソ共同委員会の会議場として使われた。2014年に元の姿に復元され、大韓帝国歴史館になっている。 © 国立古宮博物館
アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレン(右から4人目)の招きで各国の公使がアメリカ公使館で会議をした後、撮影した記念写真(1903年)。アメリカ公使館は、貞洞に設けられた最初の外国公使館で、他の国とは違い伝統的な韓屋を用いた。
近代国家の始まり
大韓帝国は、清と日本の影響から抜け出し、西欧列強と対等な外交関係を樹立して、殖産興業と富国強兵によって近代的な主権国家に生まれ変わろうとした。大韓帝国は1897年、その出発点として中国中心の東アジア秩序から離れ、国際法が支配する国際社会の一員になると宣言した。西欧の公使館や外国人住宅に隣接した貞洞の慶雲宮に、新しい皇宮も造った。
新しい皇宮には、伝統的な様式の殿閣以外に、西洋式の建物も多数建てられた。開明君主を目指した高宗(在位1863~1907)は、大韓帝国の近代化への意志を表すため、洋館の建築に積極的に取り組んだ。伝統的な様式の正殿・中和殿が、伝統の権威の象徴だとすれば、新しく取り入れられた西洋風の建物は近代を象徴し、皇帝の宮殿を華やかに彩った。
そうした建物の中で、現在の米国大使官邸に近い重明殿は、皇帝の書斎として造られたものだ。1901年の火災以降、2階建ての洋館として再建された。1904年4月の慶運宮大火災の後は、高宗の日常的な生活の場として使われた。1905年9月、アジアを訪れる中で大韓帝国にも立ち寄った米国セオドア・ルーズベルト大統領の娘アリス・ルーズベルトも、この建物の2階で高宗に謁見し、1階で洋式の昼食をもてなされた。当時、高宗は大韓帝国へのアメリカの支援を期待し、アリス・ルーズベルトを手厚く迎え、この建物の廊下で撮った自分の写真を贈った。しかし、アメリカは桂・タフト協定によって日本への支持を決めていた。
列強の公使は、日本の保護国になった大韓帝国を去り、外交タウンだった貞洞も衰退し始めた。高宗は新しい皇宮・慶運宮を貞洞に建て、外交に力を入れたが、期待していた列強の支援は全くなかった。
1920年に出版された『李王家記念写真帖』の高宗。高宗は、海外列強による内政干渉の中、自主的な近代国家建設に努めたが、1907年に日本によって強制的に退位させられた。1907年の純宗の即位後に断髪している。© ソウル駅舎博物館
一方、日本統治時代に取り壊された惇徳殿は1902年、高宗の即位40周年の式典を国際的な行事にしようと、外賓の接待用に建てられたものだ。結局、式典は中止されたが、ルネサンスとゴシックの様式を融合させた2階建ての洋館は、後に皇帝の外国人接見や燕尾服姿の高官による社交の場として使われた。
現存する徳寿宮で最大の洋館は、石造殿。1900年にイギリス人の総税務司ジョン・マクレヴィ・ブラウンの発議によって建設が進められ、上海で活動していたイギリスの技師ハーディングによって設計された。高宗は財政が厳しい中でも、大韓帝国の近代性を示す雄大な新古典主義様式の石造殿に大きな期待をかけていた。だが、ようやく完成したのは、日本の統治下に置かれる直前の1910年6月だった。
大韓帝国の時代、慶雲宮を中心に放射状に道が造られるなど、首都の道路が拡張された。そして、初めて市民のための公園も設けられるなど、都市改造事業も進められた。駐米公使館で働いていた漢城判尹(漢城の行政・司法を司る官職)イ・チェヨン(李采淵)が、アメリカのワシントンD.C.をモデルに新しい都市計画を立てた。電車、電気、電話、水道などの都市基盤施設を整える事業は、高宗が内帑金(手元金)を出資した漢城電気会社が担当した。最初の電車は1899年、西大門(ソデムン)から清凉里(チョンニャンニ)まで東西を結ぶ形で開通した。電車の登場は、アジアでは京都に次いで2番目と東京よりも早く、多くの関心を集めた。1900年には都心の鍾路の通りに街灯がともされ、夜の街を明るく照らした。朝鮮を4回訪れたイギリスの旅行家イザベラ・バードは、1897年出版のベストセラー旅行記『朝鮮紀行』で、ドラマチックに変わる街並みに驚きを表している。
外交戦略の中心地
高宗は1880年代に開化政策を進めた当時から、キリスト教の宣教師、西欧出身の外交官や旅行家などと幅広く接触し、誰よりも早く西洋の文物と情報を取り入れた。また、宮殿に電気と電話を引き、コーヒーとシャンパンを楽しむなど、西洋の生活文化にも親しんでいた。ドイツの皇帝と同じような服装で各国の外交官に接見し、西洋式の宴会やフランス料理でもてなした。
高宗は、宮殿での外国人接待のため、駐韓ロシア公使の親戚のドイツ系女性アントワネット・ソンタグを雇用した。彼女は、高宗から下賜された貞洞の土地にソンダクホテルを建てて営業を行った。高宗は近代化政策を進めるため、政府機関の高位顧問官から電気、電車、電信、鉱山、鉄道の技術者まで約200人の西洋人を雇用した。彼らは大韓帝国政府の諮問に応じて、西洋の制度や文物を伝えた。だが、それぞれ自国の利害を代弁し、互いに競争する関係でもあった。彼らはほとんどが貞洞に住み、外交官や宣教師と共に大韓帝国の外国人コミュニティーを形成していた。
当時、近代国際社会の一員になるため外交に多くの努力が払われ、貞洞が公式・非公式の対外活動の中心となった。朝鮮王朝は1887年、アメリカのワシントンD.C.に初めて常駐外交官を派遣し、ロシア、フランス、イギリス、ドイツなどヨーロッパの国々に特命全権大使を送って、常駐外国公館を設置した。また高宗は1896年、側近のミン・ヨンファン(閔泳煥)をロシアのニコライ2世の戴冠式に特使として送り、1897年にはイギリスのヴィクトリア女王の即位60年式典にも派遣した。
大韓帝国は国際条約においても1899年に万国郵便連合に加盟し、1903年にはジュネーヴ条約の加盟国となった。国際紛争の平和的な解決を図るために世界各国の代表が集まった1899年の第1回ハーグ平和会議には参加できなかったが、1902年2月には大韓帝国名義の参加申請書を提出し、日本による国権侵奪に備えた。
日露戦争が勃発する直前の1904年1月21日、大韓帝国は中国のチーフー(芝罘、現在の煙台市)で世界に向けて中立宣言を打電した。この宣言は、高宗の腹心イ・ヨンイク(李容翊)が指揮し、宮内官がフランス語教師のエミール・マルテルとベルギー人顧問の協力の下、宮殿で作成したといわれている。中立宣言文をフランス語に翻訳したのは、駐韓フランス公使館の代理公使ヴィコント・ド・フォントネーで、チーフー駐在のフランス副領事がそれを打電した。しかし、この戦時中立宣言にもかかわらず、日本はロシアとの開戦に踏み切ると同時に、朝鮮半島に数万人を派兵して不法に軍事占領した。国際社会は、日本の国際法違反行為を黙認した。
イギリスは第2次日英同盟によって、アメリカは桂・タフト協定によって、むしろ日本を支持した。アメリカのルーズベルト大統領は、日露の講和を仲介するために両国代表を自国のポーツマスに呼び、そのポーツマス平和条約によって1906年、アメリカ人として初めてノーベル平和賞を受賞した。日露戦争で勝利した日本は、アメリカ、イギリス、ロシアから大韓帝国に対する権利を承認され、1905年11月に大韓帝国に保護条約の締結を強要した。高宗は最後まで条約を承認せず、日本の特派大使だった伊藤博文が大韓帝国政府の各大臣を脅迫したため、この条約は国際法上無効に当たる。しかし、日本は急いで国際社会に条約を公布し、大韓帝国を保護国とした。
重明殿は1899年、皇室図書館として建てられたが、1904年から高宗の執務室と日常生活の場として使われた。重明殿で1905年、日韓保護条約(第二次日韓協約)が結ばれ、日本によって大韓帝国の外交権が奪われた。現在、徳寿宮の西側の離れた場所にある。
日本の歴史学者・小田省吾が、1938年に出版した『徳寿宮史』に収録されている重明殿。1925年の火災後の改修によって、2階部が大きく変わっている。 © 韓国コンテンツ振興院
国権侵奪の現場
高宗が慶運宮にある重明殿で伊藤博文から保護条約の締結を強要された当日、宮殿と塀を挟んだ米国公使館の副領事ウィラード・ストレートは、重明殿の前庭が銃剣を持った日本兵で埋まっていたことをはっきりと目撃している。しかし、保護条約が発表されると、アメリカは最も早く公使館の閉鎖を決めた。その他の公使館も、保護条約の締結と同時に、直ちに引き上げることを決めた。その中で、ロシアと軍事的な同盟関係だったフランスは、最も遅く公使館を閉鎖した。列強の公使は、日本の保護国になった大韓帝国を去り、外交タウンだった貞洞も衰退し始めた。高宗は新しい皇宮・慶運宮を貞洞に建て、外交に力を入れたが、期待していた列強の支援は全くなかった。貞洞は、「国力が弱ければ列強に頼る」外交では独立主権を守れないという厳しい国際社会の現実を如実に物語っている。
それにもかかわらず、高宗は国際社会に訴え続けた。アメリカとロシアに特使を派遣し、親書を送って支援を訴えた。保護条約が強圧的に締結されたため、国際法上無効だと主張したが、列強は目を向けなかった。高宗は、駐韓米国公使だったホレイス・ニュートン・アレンを通じて、アメリカが列強と共に朝鮮半島問題に介入するよう要請したが、返事はなかった。また、高宗は信任していたアメリカの宣教師で教育者のホーマー・ハルバートを通じて、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国の9カ国の元首に親書を送ろうとし、大韓帝国の問題をハーグの常設仲裁裁判所に提訴しようとしたが、全て失敗に終わった。
高宗は最後に、1907年に開かれた第2回ハーグ平和会議に特使を派遣した。高宗とその腹心が重明殿で、イ・サンソル(李相卨)、イ・ジュン(李儁)、イ・ウィジョン(李瑋鍾)の3人による平和会議特使団の派遣について話し合った。ロシアを経てハーグに到着した大韓帝国特使団は、44カ国が集まった平和会議に参加できなかったが、会議を取材する世界のメディアに向けて日本の不法な国権侵奪を訴え、大韓帝国の独立を支持するよう働きかけた。しかし、列強は再び大韓帝国の問題から目を背けた。ただ、ハーグで大韓帝国特使団を支援したアメリカ人のホーマー・ハルバートは、最後まで韓国を愛した人物として、後にソウルの楊花津(ヤンファジン)外国人墓地に葬られた。
日本は1907年7月、ハーグへの特使派遣を口実に高宗に退位を強要した。高宗が望まないにもかかわらず、皇太子への譲位を求めた場所も重明殿だ。大韓帝国の最後の皇帝として即位した純宗(在位1907~1910)は、日本によって朝鮮王朝時代の宮殿である昌徳宮に移り住むことになる。退位を強いられた高宗だけが、徳寿宮と名前が変わった慶運宮に残り、幽閉生活の中で1919年に逝去した。その高宗の葬儀は、国を取り戻すための民衆の大規模なデモにつながった。
これにより、大韓帝国の誕生と共に新しい皇宮として造営された慶雲宮は、住む者を失った。日本は、宮殿の敷地を大幅に縮小して多くの殿閣を取り壊した。高宗が生活していた重明殿は、外国人のための社交クラブとして貸し出された。外賓接待のための洋館だった惇徳殿は、撤去された場所に子供のための公園が造られた。日本は1930年代、徳寿宮の公園化事業を進める際、中和殿や石造殿などいくつかの殿閣だけを残して、多くの建物を取り壊した。大韓帝国の自主権と国の品格は、日本によって根底から傷つけられ、貞洞の時代も幕を下ろした。
貞洞は、近代国家に向けた大韓帝国の夢と挫折に彩られている。だが、その歴史の現場は今や西洋人の街ではない。それから100年後、グロバール・メガシティーになった韓国の首都ソウルで、由緒ある中心地となっている。貞洞は現代の韓国人にとって、賑やかな都心にあっても、古い宮殿の石垣に沿って静かな趣を感じさせる散策路として有名だ。
徳寿宮の石垣道は、賑やかな都心にあっても静かな趣を感じさせる散策路として有名。 左側が徳寿宮の裏門につながる道、右側がアメリカの大使官邸。© Getty Images
三・一運動の起点、塔谷公園
大韓帝国が市民のために造ったソウル鍾路の塔谷公園。今では高齢者の憩いの場として有名だが、朝鮮の民衆が1919年3月1日、日本の国権侵奪に抵抗する挙国的な独立運動を始めた場所でもある。全国各地でおよそ2カ月にわたって非暴力デモが行われ、日本の武力鎮圧によって多数の犠牲者が出た。多くの人が拘禁されて辛酸をなめたが、市民が歴史の主人公である民主共和制の起点となった。また、植民地支配下にあったアジアの国々の民衆運動にも影響を及ぼした。
1919年1月21日に逝去した高宗の葬列。日本による毒殺説が広がり、三・一運動の導火線になった。
フランツ・エッケルトが、大韓帝国侍衛連隊の軍楽隊と塔谷公園の八角亭で演奏会を終えた後、撮影した記念写真(1902年)。前列中央で中折れ帽をかぶっているのがエッケルト。 © 韓国コンテンツ振興院
「万民共同会」という民衆集会が1898年、独立協会によって鍾路(チョンノ)で何度か開かれた。1894年の甲午改革によって身分制度が廃止され、白丁(ペクチョン、朝鮮時代の被差別民)出身でも演説できるほど社会の認識が変わったためだった。集まった人たちは、皇帝の居所である慶運宮の正門前に押しかけ、数回にわたって上訴した。塔谷(タプコル)公園は、そうしたときに人が集まる場所だったのだろう。
市民のために開かれた空間
塔谷公園は、高宗(在位1863~1907)が1896年から積極的に進めた都市改造事業の一環として、多くの人が集まる鍾路に市民のための空間として造られた。この公園の敷地は、円覚寺址を民家が取り囲んでいた場所で、今でもその寺の塔が残っている。公園の名前も、その塔に由来している。高宗は、1902年の即位40周年記念行事を大々的に準備する中で、塔谷公園に八角亭を建てた。その八角亭で、市民のための洋楽演奏会が韓国で初めて開かれた。
ドイツ人のフランツ・エッケルト(1852~1916)は、皇帝の即位40周年記念行事のために侍衛連隊軍楽隊の指揮者として招かれ、楽隊を指導して皇帝の誕生日に演奏した。その際、ドイツから買い入れたアーチ型の公演舞台を設置し、定期的に洋楽演奏会も開いた。この定期演奏会には、西洋の国歌や民謡をはじめ、韓国初の国歌『大韓帝国愛国歌』も演奏された。
『大韓帝国愛国歌』は、フランツ・エッケルトが1902年に皇帝の命により作曲したもので、西洋式の音階とリズムに韓国的な情緒が盛り込まれている。この曲は祝日、皇室の行事、学校などで演奏され、太極旗と共に大韓帝国の臣民の愛国心を鼓舞した。フランツ・エッケルトは、その功によって大韓帝国の勲三等太極章を授与され、死後ソウル楊花津(ヤンファジン)の外国人墓地に葬られた。「上帝(神)は皇帝を助け、この世に権勢を永遠ならしめたまえ」という内容で、大韓帝国が1910年に日本によって強制的に併合された後は禁止曲になった。しかし、その後もハワイ、中国、ロシアなどに亡命した独立運動家の間で、歌詞と旋律が少しずつ変わりながら歌い続けられた。
三・一独立宣言書は1919年3月1日、民族の代表33人が朝鮮の独立を宣言した文書。同日正午の塔谷公園での宣言書朗読から、全国的な万歳運動が始まった。 © 独立記念館
幽閉された皇帝の葬儀
高宗は日本によって強制的に退位させられ、徳寿宮(以前の慶雲宮)に幽閉された後、1919年1月21日に急逝した。日本に監視されていた高宗の突然の死を巡って、日本による毒殺説が広がった。3月3日に予定されていた葬儀に参加するため、全国各地から多くの人が京城(現在のソウル)に押し寄せた。
3月1日に高宗の大輿(国葬に使う駕籠のような輿)を運ぶ予行演習が行われた。その日、京城医学専門学校の学生ハン・ウィゴン(韓偉健)が塔谷公園の八角亭に上がって、学生代表として「独立宣言書」を朗読した。それに続いて、数多くの公立・私立学校の学生が大々的な抗日デモに参加した。追悼のために徳寿宮の正門前に集まっていた人たちも、学生のデモ隊に合流して「大韓独立万歳」を叫んだ。これが、日本統治時代に最も大規模(全国各地)で激しかった三・一運動の始まりだ。三・一運動は、海外からの亡命者、留学生、宗教指導者など知識人を中心に進められたが、学生のデモや市民の参加によって大衆的な民族運動に発展した。
ソウルで初めて市民のために造られた近代式の塔谷公園は、こうして近代のもう一つの歴史を開く広場になった。階級社会から抜け出し、近代的な市民として歩み始めた民衆が、大衆演説会を開いた公園であり、抗日独立運動が始まった場所でもある。その影響で、同年4月に中国・上海に大韓民国臨時政府が建てられた。
植民地近代化の象徴、群山
日本は、朝鮮一の穀倉地帯である湖南(全羅道)で生産された米を日本に運ぶため、群山港を積極的に活用した。そのため、群山は日本による経済的収奪の現場になったが、皮肉にも植民地近代化を象徴する都市でもあった。
全羅北道最大の港・群山(クンサン)は、美しい川筋に沿って、肥えた田畑が限りなく広がっている。その群山は日本統治時代、代表的な米の搬出港だった。朝鮮から日本への米の輸出は、1876年の日朝修好条規によって始まった。それは、米や雑穀の無制限輸出入と無関税貿易という一方的な不平等条約だった。後になって問題の深刻さに気づいた朝鮮は、条約を改正してようやく穀物輸出禁止令を出したが、日本はそれに対して何度も抗議して賠償金を要求した。
朝鮮が輸出した米は、日本の新興工業地域で働く労働者の安価な食糧になった。日本はそうした労働者が工場で大量に生産した機械製綿布を朝鮮に輸出した。このようにして開港から日本統治時代まで約30年にわたり、韓国と日本で農産品の米と工業製品の綿布を交換する貿易構造が形成された。そうした貿易構造は、朝鮮半島を日本の食糧倉庫に、そして資本制度による商品市場に追いやった。
群山港の第三次築港起工記念の「米の塔」(1926年)。この塔には、米800俵以上が使われたという。1933年まで続いた工事によって、米25万俵を保管できる倉庫3棟が建設された。© 群山近代歴史博物館
米収奪の現場
その結果、朝鮮では食糧が常に不足し、米の値段が跳ね上がった。農家では、春窮期(食糧が足りない春)に青田売りで米を安く売り払ってしまい、秋の収穫期にも米が不足していた。そのため貧農層や都市貧民(零細商人など)は、物価の上昇によって生活がさらに苦しくなった。1894年に湖南(全羅道)から全国的な抗争へと広がった甲午農民戦争(東学党の乱)も、開港後の日本への米の輸出とそれによる農民層の没落が背景にあった。農民軍は「外国の商人が勝手に内地に入って、商行為をできないようにしてほしい」と訴えた。
大韓帝国政府は1899年、関税収入の増加を期待して群山を開港した。群山地域は朝鮮時代にも漕倉(税金として徴収した穀物の保管・輸送のための倉庫)があり、漕運(水運)の中心地だった。群山は開港後の一時期、客主(仲買、宿泊)や商会社(客主の組合)などが栄えていた。富国強兵と殖産興業を進めていた大韓帝国は、客主など一部の商人に営業特権を与える代わりに、彼らの財政を頼りにした。群山港で活動していた客主は、皇室の財政を司る宮内府に税金を払う代わりに営業特権を得て、近代的な会社への発展を図った。
しかし日露戦争以降、日本は侵奪を露骨化し、大韓帝国の近代化政策は中断した。日本の統監府が置かれ、日本人が本格的に朝鮮半島に押し寄せ始めた。群山港の朝鮮人の客主は、組合や会社を立ち上げて日本の商人に対抗したが、資金面で相手にならなかった。さらに、併合後は総督府が客主を規制し、朝鮮人の商会社は群山港から消えてしまった。
その結果、群山港を拠点に錦江、万頃江、東津江流域では、多くの土地が日本人の地主のものになった。その日本人農場で生産された米穀が、日本輸出用として群山港に大量に集められた。さらに、周辺地域で生産されて群山港に集まった米も、全て「群山米」と呼ばれた。朝鮮総督府の統計によると、1914年の朝鮮の米輸出量のうち、群山が40.2%、釜山(プサン)が33.5%、仁川(インチョン)が14.7%を占めていた。
群山一帯は、かつて土地の8割が日本人の所有だったほど、日本人大地主の農場が広がっていた。そうした日本人農場は藤本、大倉、三菱など日本の大資本が介入して、利潤を求める企業型農場として運営された。その結果、朝鮮人の小作農民は、そこで働くことになった。
1910年代の群山港で、日本に送る米を運ぶ役夫。日本は、韓国の小作制度を利用して、米と労働力を収奪した。1899年に開港した群山は、穀倉地帯の湖南(全羅道)の米を日本に運ぶ拠点港になった。© 群山近代歴史博物館
日本統治時代、1万人近い日本人が暮らしていた群山の旧市街地には、当時の日本家屋が 100軒以上残っている。そうした家は現在、宿泊施設やカフェなどになっており、映画のロケ地としても脚光を浴びている。 © yeomirang
近代の歴史遺跡
一方、群山は植民地近代化を象徴する都市でもあった。米を効率的で速やかに搬出できるよう、早くから近代的な交通網が体系的に造られた。韓国初のアスファルト道路(全州・群山間26番国道)が1908年に日本によって造られ、1912年には益山(イクサン)と群山港をつなぐ鉄道も建設された。その鉄道は、主な日本人農場ごとに駅が設けられ、港まで米を運搬できるようにした。また群山港は、潮の満ち引きが激しい西海岸の特性を考慮して、浮き桟橋も設置された。港の周辺には、朝鮮の米を日本人が好む白米にする精米工場が建てられ、造り酒屋もできた。
今も群山地域には、歴史を物語るものが数多く残っており、都市全体が近代歴史博物館ともいえる。その中には、日本人が住んでいた高級住宅、日本人のための寺院だった東国寺、そして日本人が運営していた朝鮮銀行と十八銀行などの建物がある。また、日本統治時代には畳敷きの映画館もでき、活動写真や演劇が楽しまれていた。今でも毎日のように観光客の行列ができる有名なパン屋「李盛堂(イソンダン)」も当時、群山に住んでいた日本人の好みに合わせたものだった。