仏教の修行者にとって、食べることの最も重要な目的は、それを養分にして世の中のあらゆる存在と宗教的な悟りを共有することにある。そのため食事は、味わいや満腹感を得るものでなく、修行の領域・過程にある。托鉢や鉢盂供養は、その実践方法といえる。
鉢盂供養では、膳に当たる鉢盂単を敷いて、その上に鉢盂(器)を順番に並べていく。御侍鉢盂(ご飯)は左手前、クク鉢盂(汁物)は右手前、饌鉢盂(おかず)は左奥、清水鉢盂(水)は右奥。修行者は少量の食事をするが、食事の量を調節するのも修行だ。
食事を済ませた後、鉢盂(器)はきれいにまとめて棚に保管する。ⓒ 伝燈寺
仏教は、インドで生まれた宗教だ。ブッダ(仏陀)の生きた時代には、食べ物の量を極端に減らして味を否定するバラモン教やジャイナ教の苦行主義とは違い、食事の適切な量や味を認める中道的な観念を持っていた。しかし、午後には食べない伝統があり、修行者が食への欲望に駆られて戒律に反する余地もあった。そのため、托鉢、食事法、戒律、そして食への欲から脱する修行を行った。
初期の戒律
托鉢で毎日の食事を済ませるインドの仏教修行者は、在家者から供養された物しか食べなかった。それによって、食への欲望を減らすことができた。その他に、自発的な意志で食事の量や味を抑える方式もあった。修行者の13の実践法には「托鉢と食事法」があり、1日に1杯のご飯を食べた後、それ以上食べることができないと規定されていた。また、一度座って食べ終わると、その日は何も食べることができなかった。豊かな家でも貧しい家でも順番通りに回って、食べ物を施してもらうという決まりもあった。
その他に、修行者がおいしい物だけを乞うこと、一度にたくさんの施しを受けたり何回も施しを受けることも、戒律で禁止されていた。また、修行者が食への欲望を捨てる最も根本的な方法は、修行だと考えていた。そして、修行の核心は食べ物という対象ではなく、食への欲に駆られる修行者の感覚と認識を根本的に抑えることにあった。現在よく知られている修行方法としては、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師の食べる瞑想「マインドフル・イーティング」がある。
修行者の労働
東アジアの禅宗は、食への態度や見方がインドの仏教とは異なる。インドの仏教では、修行者の生産活動、つまり農業活動は生き物をあやめる恐れがあるため禁止されている。また、食材の保存や調理も許されなかった。しかし、禅宗では「1日作さざれば1日食らわず」という言葉からも分かるように、修行者の生産的な労働は修行の一部とされ、生産物も保存できる。禅宗で、修行者の食事は修行者が調理する。日本、韓国、中国の精進料理は、そのような東アジアの禅宗の独特な思想から影響を受け、仏教文化の一部として成立したものだ。
東アジアの禅宗の流れを汲む韓国でも、食の味と量についてインドの仏教とは全く異なる見方をしている。食の味と量が肯定され「三徳」と「六味」という概念によって具体化されている。三徳は、次のように食材に必要な要素だ。第一に、食材は食べた後、体を円滑に機能させるものでなければならない(柔然)。第二に、食材は清潔で、食品として問題があってはならない(清浄)。第三に、大乗仏教の食の規定に従い、肉類、ニンニク、ネギ、ニラ、アサツキ、ラッキョウなど辛みのある五つの野菜(五辛)を食してはならない(如法)。三徳は、料理への肯定的な認識と食材への具体的な見解を表し、韓国の精進料理の重要な規定となっている。
六味からも、韓国の精進料理の特徴をうかがい知ることができる。六味は、塩味、甘味、酸味、苦味、辛味、淡味を指している。アリストテレスの四味(甘味、塩味、酸味、苦味)や中国の伝統的な五味(甘味、塩味、酸味、苦味、辛味)に見られる味の水平的な位置付けとは異なり、韓国の禅宗の六味のうち最も重要なのは「淡味」だ。淡味は、他の五つの味の特性を受け入れ、料理の味を調える「根本味」で独特な位置付けにある。様々な味の食材を受け入れ、特定の料理の味へと調和させるものだ。
この三徳と六味に沿って作られた料理は、韓国の禅宗で「鉢盂供養」と呼ばれる食事法によって食される。鉢盂供養は、共同体の食事だ。特定の修行者の口に合わせて調理されるわけではない。その時々の季節や事情に合わせて用意された食材を使い、三徳と六味の規定に沿って作られる。そのため、どの修行者も個人的な嗜好に合った味を求めることはできない。しかし、旬の食材と澄んだ空気と水が生み出す食の自然な味わいを享受できる。
米一粒、唐辛子の粉一つも残さず、鉢盂の食べ物を完全に食するのが原則だ。修行者は、そのような食事法によって、食の味や量への欲望を抑えることができる。
悟りへの過程
京畿道・水原(スウォン)にある奉寧寺(ポンニョンサ)で、ご飯をよそってもらった後、御侍鉢盂を持ち上げる僧侶。眉の高さまで持ち上げて下ろした後、汁物をよそってもらう。おかずは、必要なだけ自分で鉢盂に盛る。
鉢盂供養には、自分が食べられる量を盛る過程も含まれる。修行者は、配られた食事を各自の量に合わせて加減する。そして、米語で「パートラ」。ブッダは悟りに開いた後、二人の商人から供物を受けた。だが、四天王は器がないことを知り、ブッダに鉢盂を献上したといわれている。それ以来、鉢盂は仏教の修行者の食器として使われてきた。東南アジアの上座部(小乗)仏教では現在、一つの鉢盂が使われているが、東アジアの禅宗の伝統を継ぐ韓国仏教では、ご飯、汁物、水、おかずを入れる四つの鉢盂が使われている。また、鉢盂は鉄、陶器、木などで作られるが、韓国の禅宗では木製が一般的だ。一方、インド仏教では、修行者が袈裟と鉢盂を自分で用意する。しかし、東アジアの禅宗では、弟子が師から袈裟と鉢盂を授けられることが、法脈を継ぐ証とされてきた。
修行者が食事の前に唱える「五観の偈(げ)」は、鉢盂供養が単なる食事の作法ではなく、最も重要な儀礼の一つだということを表している。
功の多少を計り、彼の来処を量る。
己が徳行の全欠を忖って、供に応ず。
心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす。
正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。
成道のための故に、今この食を受く。
(この食物が、
多くの人々によって作られたことを考えると)
(己の徳では、頂くのも恥ずかしい)
(心の過ちや欲を捨て)
(身体を養う良薬として)
(悟りを開くため、
この食物を頂く)
共同体の食事
器がきれいになるように食事を済ませた後、鉢盂手巾(手ぬぐい)で鉢盂、箸、匙をきれいに拭き、鉢盂褓(ふろしき)でまとめる。その結び目は、一文字になるのが原則。
修行者に与えられた食べ物は、自分だけのものではない。五観の偈が終わった後、食事を前にした修行者は、陸の動物、空の動物、虫などに与えるため、7粒のご飯を自分の鉢盂から取り出す。修行者の食事は、他の生命との共同体の食事なのだ。
また、修行者の食べ物は、この世の人間、動物、虫などだけでなく、あの世の存在とも分け合う。それは、亡くなった親、祖父母、親戚などだ。あの世にいる者のために、三つの「偈」を唱えることで表現される。また、修行者は人間、動物、あの世の者など欲界の衆生だけでなく、上位にいる10人のブッダ(十号)と菩薩の名号を唱えることで、そうした存在とも食べ物を分け合う。仏教の修行者にとって、食べることの最も重要な目的は、それを養分にして世の中のあらゆる存在と宗教的な悟りを共有することにある。
修行者がご飯粒や唐辛子の粉を残さず、水で洗って鉢盂をきれいにするのは、鉢盂に残った水が餓鬼のものだからだ。仏教において餓鬼は、常に飢えと渇きに苦しむ存在だが、喉が針の穴よりも細いため、ご飯粒や唐辛子の粉でも喉に詰まってしまう。そのようにして、鉢盂供養は、与えられた物を完全に食して終わる。
また、修行者の食べ物は、この世の人間、動物、虫などだけでなく、あの世の存在とも分け合う。
それは、亡くなった親、祖父母、親戚などだ。