間借りは、かつて大都市の住民にとって極めて普通の住まいで「厳しい暮らし」の象徴だった。しかし、悲しいことばかりではなかった。いくつかの世帯が一つ屋根の下で暮らすことで、温かく多彩な人生の物語も生まれた。今ではアパート(日本のマンションに相当)が住宅の6割以上を占めており、生活水準も全般的に向上したため、間借りは過去の思い出になっている。
両親は、叔父の家の門の横にある部屋で新婚生活を始め、兄を生んだ。そして、50年前にそこを離れて、隣の家に間借りした。引っ越した家は、門の扉も大きく、庭も広かった。家はコの字型の間取りで、真ん中に大家さんの家があり、両側に貸間があった。その中で、右奥にある小さな縁側のついた部屋で、私たちは暮らしていた。
母は今でも「台所道具といっても、木の板で作った粗末な戸棚と石油コンロくらいだった」と当時の暮らしを時々話してくれる。そして、大家のおばさんや間借りしていた人たちが、赤ん坊だった兄をかわいがって、皆がおんぶしたがったという話も忘れない。
私は、その家で生まれた。時々、その当時の様子を想像してみる。2月末でまだ寒く、出産が迫っていたため、練炭を十分使って暖房したはずだ。そう考えているうちに「私を取り上げたのは、誰だったのだろう?」、「私の産声を聞いた人たちは、何を考えたのだろう?」という疑問が浮かぶ。
『ソウル中林洞(チュンニムドン)』キム・ギチャン(金基賛)、1990年 ソウルの旧市街地に位置する中林洞は、急変する周辺の様子とは異なり、今でも半世紀前の居住環境と趣を保っている。狭い路地と急な階段が多いため、引っ越しする人は、自分で荷物をまとめてリヤカーで運んでいた。© チェ・ギョンジャ(崔敬子)
共同井戸
生まれた家のことを考えると、庭の真ん中にあった手押しポンプが真っ先に思い浮かぶ。その家の庭には、共同の井戸があった。蛇口のついた水道ではなく、手押しポンプの井戸だ。母がポンプに呼び水を入れて強く押すと、地下水が勢いよく流れ出る。すると、間借りしていたおばさんたちがみんな出てきて、車座になって洗濯をした。私は縁側に座って、その光景を眺めるのが好きだった。みんなそこで順番に顔を洗い、歯を磨いた。しかし、あまりにも昔のことなので、その光景が本当の記憶なのか、後で様々なイメージが積み重なった錯覚なのか、もはや知るすべもない。
私は、その庭で歩き始めた。よちよち歩きから、走れるようになった。庭に座り込んで指で絵を描いて遊んだため、いつも服が汚れていた。近所の年上の男の子たちが、裏山に遊びに連れていってくれなくて、泣いたことも覚えている。兄は大家さんの家で初めてテレビを見てから、目が覚めるとそこに行った。夕方迎えに行くと、帰りたくないと泣き出して、何度も母を困らせた。
母は、その貸間に引っ越した年に、5年満期の積立式預金を作った。その翌年には4年満期の積立を、またその翌年には3年満期の積立を始めた。そうして同じ日に満期を迎えた五つの積立金を受け取って、新しい家を買った。兄が小学校に入るまでに、小学校のないその村を離れたいという母の願いは、そうして叶った。「あくせくお金を貯めている時でも、二人とも毎日、卵一つは必ず食べさせていたものよ」という母の話は、少なくとも百回は聞いただろう。
母の願い
『ソウル中林洞』キム・ギチャン、1980年 歌いながらゴム跳びをする女の子。当時の子供たちは、学校から帰ると、家の前の路地で日が暮れるまで一緒に遊んでいた。今では見られない姿だ。 © チェ・ギョンジャ(崔敬子)
新しい家は、小学校の近くにあった。学校がどれほど近かったかというと、忘れ物をしても、休みの時間に取りに戻れるほどだった。その家に引っ越した時のことは、かすかに覚えている。まず、門の扉を開けると庭がある。しかし、芝生や木はなく、片隅にトイレがぽつんとあるだけだ。大人たちが荷物を運ぶ間、大きな木とブランコのある庭を思い描いてみた。母と一緒に花壇の手入れをしている姿も想像した。愛する娘のためなら、親はすぐにでもそうしてくれそうな気がした。
だが、現実は違っていた。親は庭をなくして、そこに店を構えた。家はあっけなく二分され、母はそこで食堂を始めた。がっかりしたのは、それだけではなかった。台所以外に部屋は三つもあったが、私の部屋はなかった。両親は台所のある部屋で寝て、私と兄は祖母と共に一番広い部屋で過ごした。そして、残りの二部屋は間貸しした。小さな部屋に間借りしていた夫婦には、赤ん坊がいた。おむつをした赤ん坊は、私たちが使う板の間を這い回り、そこでよちよち歩き始めたが、走るようになる前に引っ越していった。
母の食堂は繁盛した。テレビを買って、冷蔵庫も買った。そして、数年後には店を二階建てに増築して、部屋を三つ増やした。玄関の左にあった倉庫をなくして、そこにも部屋を一つ造った。本格的に間貸しをするようになったのだ。食堂の隣にも店を造り、そこには木工所が入った。私は木工所のおじさんに木の剣を作ってもらい、腰に差した。夕暮れ時まで学校の運動場で遊んでいたため、いつも服が汚れていた。母は私のお尻を叩いて、だらしないと叱ったが、嫌ではなかった。本気で叩くのではなく、お尻の土を払っていることは、私にも分かっていた。
私の家に間借りしていた人たちは、全国からやって来た。私は、どこから来たのか尋ね、その場所を地図で探した。みんな庭にある共同のトイレを使ったので、自然と顔を合わせることが多かった。その中でも一番記憶に残っている人は、何といってもアルコール依存症のおじさんだ。目はいつも充血していて、夏には白いランニングシャツと麻の半ズボンという格好だった。目が合うと、丁寧に挨拶してくれた。たまに奥さんらしき人が訪ねてきたが、そんな日は明け方まで喧嘩していた。おじさんは、その部屋で亡くなった。それは、私が初めて目にした死だった。
私の家に間借りしていた人たちは、全国からやって来た。私は、どこから来たのか尋ね、その場所を地図で探した。
みんな庭にある共同のトイレを使ったので、自然と顔を合わせることが多かった。
『ソウル杏村洞(ヘンチョンドン)』キム・ギチャン、1974年 産業化が始まった頃は、多くの家族が一つの屋根の下で暮らす「間借り」が、都市の庶民の最も一般的な居住形態だった。このような住宅は普通、庭に共同で使用する水道、みそやしょうゆを仕込む甕(かめ)置き場があった。© チェ・ギョンジャ(崔敬子)
物語の種
私は、引っ越すのが夢だった。いつも転校生をうらやましく思っていた。新しい学校で新しい友達を作ったり、先生と一緒に教室に入って知らない生徒の前で自己紹介することは、想像しただけでも怖かった。それでも、一度やってみたかった。私は、同じ家から小・中・高校に通った。そして、大学生の時にしばらく親元を離れて過ごしたが、また舞い戻ってきた。その後も自立できず、ずっとその家で暮らした。
兄が結婚して家を出た後、父は兄の部屋を使った。そして、私が家を出ると、父は私の部屋に移り、兄の部屋は倉庫になった。子供のいない家で暮らす両親を見て、父も母も初めて自分だけの部屋が持てるようになったのだと考えた。8人兄弟の母は、一人で部屋を使ったことが一度もなく、5人兄弟の父も同じだった。それ以来、街で両親と同年代の人に会うと、よくこんな想像をした。あの人は、いつ自分だけの部屋を持ったのだろうか。うちの親のように兄弟姉妹の多い家庭に生まれて、小さな一部屋で新婚生活を始めたのだろうか。そして、子供を産んで、その子供に部屋を与えるため、あくせくお金を貯めて『少年少女世界名作全集』のような本を買い与えたのだろうか。70年、あるいは80年という歳月の間、ただの一度も自分の部屋を持ったことがない人もいるだろう。ある人は夫婦のどちらかが先立ってから、一人で部屋を使うようになったのかもしれない。
両親は、今もその家で暮らしている。お金が貯まるたびに部屋を増やして間貸ししたため、いびつな形になっている。今では町全体の老朽化が進み、借り手もなかなか見つからない。私は10年前に親元を離れて、アパートに引っ越した。それでも、しょっちゅう実家にご飯を食べに行く。数年間、12月31日には実家に泊まった。朝起きて「明けましておめでとう」と挨拶するためだった。しかし、その決心は長く続かなかった。今の家の方が、どんどん居心地がよくなって、実家に泊まることはほとんどない。
40歳になるまでその家で暮らしたが、今は不思議なことに、子供の頃のことばかり思い浮かぶ。ある日、道で友達とゴム飛びをしていると、兄が走ってきて耳打ちした。「来たぞ」。数日前から待っていたカラーテレビが届いたのだ。その時の喜びは、今でも鮮明に覚えている。私は家まで全力で走っていった。息を切らしてテレビを見ていた小さな子供が、今でもその家に住んでいるような気がする。
引っ越してきたり、出ていったり、夫婦喧嘩したり、離婚したり、夜逃げしたり、あるいは警察に連れていかれた人たちが、全て私の隣人だ。玄関のドアのすりガラスから外を見ると、一人が数十人にも見えた。私は、そんなふうに人を見ていた。それが小説の種になった。私は、そうして物語を作ってきたのだ。