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2024 WINTER

ソウルで最も歴史ある人気スポット

景福宮(キョンボックン)の西側にある西村(ソチョン)は、由緒ある町だ。朝鮮時代(1392~1910)には王族や士大夫(両班)のような権力者が住み、中人(支配階級の両班と平民の常人との間に位置する身分)の文化活動が盛んに行われた。近代には多くの文人や芸術家が過ごした場所でもある。

景福宮の西側の塀。この塀は地下鉄・景福宮駅から、韓国の歴代大統領の足跡と韓国の伝統文化に触れられる青瓦台サランチェまで800mほど続いている。塀の中ほどに景福宮の西の門・迎秋門(ヨンチュムン)がある。

西村は韓国の伝統的な風水地理で地相が良いとされ、景観も非常に美しい。北には白岳山(ペガクサン)、西には仁王山(イヌァンサン)、東と南には朝鮮王朝の王宮・景福宮と祭壇・社稷壇(サジクタン)が、取り囲むように位置している。

また、西村はソウルで最も古い町並みが残るエリアの一つだ。高麗時代(918~1392)の1068年に現在の景福宮の北側から青瓦台(チョンワデ、旧大統領府)にかけて、行宮(ヘングン、離宮)が設けられた。行宮のそばにある西村は、その時期に形成されたと考えられている。

同地が本格的に歴史に登場するのは、景福宮が造られてからだ。高麗を倒して朝鮮を建国した太祖(テジョ、在位1392-1398)は、1394年に首都を現在のソウルに移した。その翌年に景福宮が完成すると、周辺に朝廷の機関や民間の居住地が設けられた。

朝鮮時代には西村を指す言葉がいくつかあったが、中でも壮洞(チャンドン)、あるいは壮義洞(チャンイドン)が広く用いられていた。

文化遺産を維持管理する非営利の文化財団アルムジギの事務室から見た迎秋門近くの塀。同財団などこの道に面した建物からは、向かい側の王宮の塀がよく見える。

王の誕生の地

朝鮮初期の歴史において西村で最も有名な場所は、太祖の5番目の息子イ・バンウォン(李芳遠)、後の太宗(テジョン、在位1400-1418)の家だ。現在の通仁洞(トンインドン)にあったと推定される私邸で、太宗とその息子から孫まで4人の王が過ごした。王世子(王位継承者)は宮殿で暮らすので、私邸を持たないものだ。つまり太宗と子どもたちが私邸に住んでいたということは、王位継承者ではなかったことを意味する。

しかしながら、その家で生まれた太宗の息子の世宗(セジョン、在位1418-1450)、孫の文宗(ムンジョン、在位1450-1452)と世祖(セジョ、在位1455-1468)が王になれたのは、イ・バンウォンがクーデターによって王位に就いたからだ。世宗は朝鮮で最も偉大な業績を残した王であり、ハングルを作って領土を広げ科学技術を発展させた。

朝鮮初期、西村では太宗や世宗だけでなく多くの王族が暮らしていた。中でも、世宗の息子の安平大君(アンピョンデグン)の家は、朝鮮前期を代表する有名な山水画『夢遊桃源図』を生んだ場所でもある。安平大君が夢で見た桃源郷を当代最高の画家だったアン・ギョン(安堅)に描かせたものだ。この作品は現在、日本の天理大学の図書館に所蔵されている。

朝鮮後期において最も優れた王とされる英祖(ヨンジョ、在位1724-1776)は、王位に就く前に西村の南側にある彰義宮(チャンイグン)に住んでいた。英祖は王になった後も彰義宮をよく訪れ、そこでの暮らしについて詩を残している。また、身分の低かった母親を祭った祠堂を西村の北側に建て、何度も足を運んだ。

1951年にオープンした大五(テオ)書店。ソウルで最も古い書店として有名だ。現在はカフェを兼ねた文化施設で、客足が絶えない西村の代表的な人気スポットでもある。

壮洞・金氏のおひざ元

朝鮮時代に西村で最も権勢を振るった士大夫は、キム・サンホン(金尚憲、1570-1652)だ。ネットフリックス・オリジナルシリーズ『イカゲーム』で有名なファン・ドンヒョク(黄東赫)監督の映画『天命の城(原題:南漢山城)』(2017)にもキム・サンホンが登場する。キム・ユンソク(金允錫)が演じ、清に屈せず戦うべきだと強く主張する人物だ。

キム・サンホンは最高権力者になった文官であり、子孫まで名家として権勢を誇った。朝鮮後期まで最も力のある党派の中心であり続け、15人の政丞(チョンスン、首相・副首相)と35人の判書(パンソ、長官)を輩出した。この家系の本貫(発祥の地)は慶尚北道(キョンサンブクト)の安東(アンドン)だが、キム・サンホン兄弟が西村にいたので、当時の地名になぞらえて「壮洞・金氏」と呼ばれた。西村は、そのキム・サンホンの文によって広く知られるようになった。例えば、西村の名勝について10編の詩を残しており、仁王山の紀行文も書いている。清に連れて行かれた際には、西村の家に思いをはせる詩も詠んだ。

西村の大通り沿いは大きなビルが立ち並んでいるが、中に入ると昔ながらの趣を残した狭い路地が迷路のようにつながっている。

政治権力を握っていた壮洞・金氏は、文化の面でも足跡を残している。キム・サンホンのひ孫は、朝鮮後期の最高の画家とされるチョン・ソン(鄭敾、1676-1759)の支援者となった。チョン・ソンはその恩に応えて、壮洞・金氏が住んでいた西村一帯の風景を画帖『壮洞八景帖』に収めた。またチョン・ソンは晩年、朝鮮後期を代表する山水画『仁王霽色図』を描いている。雨上がりの仁王山を現在の北村(プクチョン、景福宮の北側)から捉えた作品だ。

朝鮮後期には、商業の発達や階級制度の緩和によって、西村の中南部で暮らしていた下級官吏の中人の地位が上がった。教育の機会が増えると両班の文化を取り入れて様々な詩会を開き、壮洞・金氏など士大夫が居を構えていた仁王山近くの玉仁洞(オギンドン)で文学活動を行うようになった。中でも有名な詩会が松石園詩社(ソンソグォンシサ)だ。この詩会は、両班の文学が中心だった朝鮮社会において、中人階級による委巷(イハン)文学の発展に大きな役割を果たした。委巷文学の全盛期を築いた松石園詩社は、多くの詩集を発行し、19世紀初頭まで旺盛に活動した。

近代の痕跡

日本統治時代には親日派が西村に大邸宅を持っていた。特に韓国併合(1910)を進めたユン・ドギョン(尹徳栄、1873-1940)は、当時の個人住宅として最大で、建築面積が800坪にもなる洋風の大邸宅を建てた。そこは朝鮮時代に両班が風流を楽しみ、中人が集まって詩会を開いた場所だった。1960年に火災で焼失してしまったが、ユン・ドギョンが娘と婿に譲った洋風の邸宅や妾が暮らした韓屋(韓国の伝統家屋)は今も残っている。その洋風邸宅は現在、鐘路(チョンノ)区立パク・ノス(朴魯寿)美術館になっており、韓屋はソウル市が市民のための施設としてリニューアルする計画だ。

韓国の近代文学史に大きな足跡を残した詩人、小説家、建築家のイ・サン(李箱、1910-1937)が20年ほど過ごした家。撤去計画も持ち上がったが、文化遺産国民信託が一般市民の募金と企業の後援によって2009年に購入し管理している。室内にはイ・サンの作品を年代ごとにまとめたアーカイブが展示されている。
© 韓国文化院連合会

西村では日本統治時代から終戦後にかけて、韓国の文学史と絵画史に足跡を残した著名な詩人、小説家、画家らが活動した。日本統治時代に西村に住んでいた代表的な作家として、前衛的な詩や小説、随筆を残したイ・サン(李箱、1910-1937)、抗日詩人として広く知られるイ・ユクサ(李陸史、1904-1944)やユン・ドンジュ(尹東柱、1917-1945)などがいる。イ・サンの友人だった画家ク・ボヌン(具本雄、1906-1952)、鮮烈で叙事的なエネルギーを筆に乗せた画家イ・クェデ(李快大、1913-1965)、郷土的で童話的な叙情を色濃く表現した画家イ・ジュンソプ(李仲燮、1916-1956)も同地で過ごした。

終戦後に西村で起きた最大の出来事は、1960年の四月革命だ。不正選挙に抗議するためにイ・スンマン(李承晩)大統領のいる景武台(キョンムデ、現在の青瓦台)に押し寄せた学生や市民に向かって警察が発砲し、革命が燃え盛った。その発砲の現場が、今の孝子路(ヒョジャロ)と青瓦台前の噴水台広場だ。

朝鮮時代から北村と共にソウルで最高の居住地だった西村は、1960~70年代にパク・チョンヒ(朴正煕)大統領の軍事政権を経て、衰退の一途をたどった。青瓦台の警備が強化され、西村一帯の規制が厳しくなったためだ。だが1987年の民主化以降、西村の様々な規制が緩和され、2010年から伝統的な家屋への支援が行われたことで、今では自然、歴史、文化が息づくソウルの人気スポットになっている。

1920~30年代に造られた改良韓屋と近代的な建物が調和した町並み。西村を象徴する風景で、遠くに西村のランドマーク・仁王山がそびえている。

キム・ギュウォン 金圭元、ハンギョレ21先任記者
チェ・テウォン 崔兌原、写真家

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